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木村正彦はなぜ力道山を殺さなかったのか [■BOOK・COMIC]

満足度★100点

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか(上) (新潮文庫)

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか(上) (新潮文庫)

  • 作者: 増田 俊也
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2014/02/28
  • メディア: 文庫
木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか(下) (新潮文庫)

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか(下) (新潮文庫)

  • 作者: 増田 俊也
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2014/02/28
  • メディア: 文庫

●不遇の柔道王の人生に涙した


私が一番嫌いなこと。それは説得や説明の機会がなく、相手の勘違いから馬鹿にされたり見下されたり、不幸な目に合うこと。堂々と喧嘩を売られたり衆目の面前で痛罵されるほうがまだまし。それは他人に対しても同じでどんな時代の人の人生であっても、やるせない思いでふつふつと怒りがわいてくる。


全国民がプロレスというものがシナリオがあるものだと理解せず、不意打ちで負けた「木村は弱い」と思ってしまった。かつて「木村の前に木村なし、木村の後に木村なし」と呼ばれた人を、だ。


あまりに無垢で、純粋で、世事に無頓着で、王者の気風を持っていたからこそあっさり騙された。自分の強さを疑わなかったことも裏目に出た。

読めば読むほど木村さんの後半生の苦しみを思うと、自分のことのように苦しくなった。

強い人が強いと理解されず、勘違いされたまま歴史からも消えていこうとするのは本当にやるせない。


しかし私も格闘技の歴史の一端しかしらなかったこと痛感する。

「一本」が美しいとするのが正道だと思っていた柔道史観を根底から覆された。勝者が歴史を作るという言葉があるが、格闘技の世界でも同じことなのだな、と思った。


《メモ》

・プロレスのシナリオは「アングル」、真剣勝負は「セメント」と呼ぶ。

・柔道は元々武士の時代から実戦思想。実は総合格闘技に通じるものがあり、そのため木村もボクシングなど打撃を取り入れることに柔軟な姿勢だった。

・師匠の牛島熊辰は戦後、国際柔道協会というプロ柔道団体を立ち上げたが1年ほどで終わった。

・戦前の日本の柔道は「高専柔道」が寝技を極めた。

・講道館は立ち技に傾倒、高専柔道との派閥争いが起きる。

・木村は師匠の牛島熊辰と共に柔道界から排斥された。後年、柔道講師として拓大に戻った後もそれは続いた。

・「悪童」の木村、師匠は「思想家」。

・牛島は東条英機を暗殺しようとし、木村を刺客にしようとした。

・戦後GHQが武徳館の解散を命じ、高専柔道も消滅した。

・木村と戦って勝ったことのある阿部謙四郎は武徳館再興を訴え、日本を見限り欧州に渡り、武道の本質を伝え英国人に数人の心をつかむものの、同上復活には至らず、いつしか消息がわからなくなり、最後は秩父の老人ホームで果てる。自分の人生は戦争で入隊した時点で終わったと語った。

・拓大への復帰を、そのとき理事長だった西郷隆盛の孫がなかなか承諾しなかった。


戦後、人生が変わったのは全国民と言えるかもしれないが、こと武道をたしなむ者の栄枯盛衰はことさらドラマティックだ。

阿部や木村の目も当てらない悲惨なものから、ブラジル、ハワイなど様々な海外に出かけ活路をもとめ、そこで出会った現地の格闘技を吸収し、その地で「ブラジリアン柔術」として収斂し花開く。


私が一番ぐっときたのは、かつて木村と戦ったエリオ・グレイシーの血を受け継ぐグレイシー一家が、90年代の総合格闘技ブームで、柔術の本流は自分たちが木村から引き継いでいるという誇りをもって日本でその技を示し、木村という人間の凄さを証明してくれたことだ。しかし、その気持ちも日本人に届いたかどうか。日本人が忘れた武道という哲学を理解されず、彼らは非常にがっかりしたことだろう。


とにかくボリューム満点でとても消化できないが、木村正彦の人生の一端、エキスは抽出することはできた気がする。私は柔道界からも格闘技界からも「強さ」を思う存分発揮するチャンスを与えられなかった、不遇の武道家のことを忘れたくないと思った。

タグ:木村正彦
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ザリガニの鳴くところ [ヒューマンドラマ]

満足度★85点
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※最初に書いておきますが、キャッチコピーには踊らされないでください。
この映画は湿地の美しさと、捨てられた少女の世間との戦いをありのままに受け入れ、素直に観たほうがいいと思います。

■じわじわと沈殿していくような余韻

不遇な人生を送ったカイアに深い同情を感じると共に、ほんの少し突き放されたような気持ちに。
観賞後に互いの感覚が私を引っ張り、不思議な後味となって残った。

でもやはり、最後に母を求める小さなカイアの眼差しが忘れられず、じわじわと哀しみで胸が浸たされていった。成長しても「小さなカイア」は彼女の心の中にずっと住み着いていて、その傷は癒えることはなかったのではと思うと、自然と涙が出てきてしまった。

暴力的だった父が一時みせた優しさの象徴である鞄を、成長してもずっと使っていたカイア。
皆に捨てられても誰かが帰ってくるのではと細い可能性にすがるカイア。

「軍でもらった」という鞄。父親も戦争で傷つき、国に棄てられた元兵士なのだろうか。人を信用するななどの台詞から、彼もまた、気を病み、人に疎まれ無理解に苦しんでいた様子が窺える。自分ではどうしようもない憤りを家族にぶつけ、そんな自分にまた傷ついている。負の連鎖である。
しかし家族は逃げ出したが、カイアはそこから逃げ出さなかった。
不幸の象徴である場所に住み続けた。母親が「あなたは特別」というように、彼女は湿地を愛し自然を愛した。母親譲りの才能も彼女を助けた。それはまさに住むというより棲むに近い。
彼女はまさに「湿地と一体化」した存在になった。

この映画が特別な魅力を放っているのは、移ろいゆく自然と湿地の美しさに、人間の心の移ろいやすさも同時に描かれ残酷さが加わっていることだろう。
カイアは、町の人々からは恐ろしい湿地に住んでいる世捨て人として拒絶される存在だが、テイトやチェイスにとっては童話のように美しい世界のお姫様でもある。
しかし、チェイスの態度は希少な動物を狩るハンターそのものであり、カイアを所有物のように扱い力でねじ伏せようとする。

カイアがテイトにも黒人夫婦にも頼らず自力で恐怖に立ち向かうことを決意したのは、それまでも湿地で生き延びてきた強(したた)かさを身につけたからでもあり、人に何度も裏切られてきたことによる心の防衛でもあるように思う。

人として法で裁かれるなら罪になる。しかし人間も動物であるのならば、彼女は本能に従ったまでである。カイアのいうように、そこに善悪というものはない。動物は縄張りを守るため同じ種と戦い、捕食者がやってくるのならば、全力で抵抗する。彼女を癒し支えになった動植物たちが、最終的に、生きるなら戦いなさいと彼女の背中を押したのかもしれない。

最後に、人知れず小さな幸せを守り抜いた人生に思いを馳せた。
小さなカイアの魂はあの沼地で、安らかに眠っているだろうか。

余談だが時代背景も重要。ネットやスマホがある現代ではこれほど魅力的なストーリーにはならなかっただろうし、黒人夫妻が味方になるのも自然の流れであった。まだ黒人が社会的弱者であった時代、白人であるカイアの父親に緊張し警戒する様子などの細かな演技がこの作品に複雑さを与えていると思う。

タグ:映画
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