シード~生命の糧~ 「ウナカメ夜シネマ」に参加 [ドキュメンタリー]
■いきすぎた資本主義と開発競争の果てに
中野のシェアカフェ「ウナ・カメラ・リーベラ」で、「ウナカメ夜シネマ」という名前の上映会に参加しました。
https://www.cinemo.info/73m
メーカーに特許があるため種を採取することはできず、永遠に種を買わざるを得なくなる。そして作物が病気にならないよう、農薬もセットで購入せざるを得ない。企業は各国で政治献金も怠らず、種子の特許が受理されるよう手を回す。この利権の構造たるや。
欧米(主にアメリカ)による、中南米の石油開発による実質的な植民地支配の構造を思い出しました。
石油が種に代わっただけで、構造自体は全くおなじもの。
農薬の飛散により、薬害で苦しむハワイの人々の実状や土壌汚染も描かれていました。
民間人の殺傷に関してはわかりやすいため、マスコミも報道しやすい。しかし種子バンクの攻撃はその恐ろしさがダイレクトに伝わりにくいため、あまり日の下にさらされない。
民族そのものの数を漸減させるようなやり方は非道だ。もしかしたら将来、敗戦国が勝利した国に輸入を頼るかもしれないということまで考えられているとしたら、そら恐ろしいことである。
日本では1971年に「塩業近代化臨時措置法」が成立し、塩田が撤廃。海外の塩をわざわざ輸入して日本で天日干しして国内製造として販売している時期がありました。現在もコストの面で、伯方の塩は中身はメキシコ産だったりする。このように複雑に利権が絡み合った不思議な世界に、私たちは生きているのだなと寒気を覚えます。
遺伝子組み換え作物が登場してから年月は浅い。
現在は壮大な人体実験のさなかにいるのだろうと思う。
ジャンポール・ゴルチエのファッション狂騒劇 [ドキュメンタリー]
ミュージカルを観に行った友人と映画も一緒に。個人的には熊の“中の人”がツボ。ダンス習っているので、振り付けシーンがもっと見たいと欲が出ました。
フランス人の絶え間なく溢れ出す言葉と会話の量に圧倒されつつ、ゲイであることで子供の頃に受けた差別や孤独感が彼の今を形作ったのだとわかる構成になっていました。
居丈高で近寄りがたいイメージのファッションデザイナーとは違い、彼は凄く優しい。
演出が自分のイメージと違うと告げた振り付け師に後でフォローしたり、本番直前に怪我したダンサーにも自分のことのように心痛める。本番直前間際に進行が青くれていても、決して怒鳴ったり物に当たり散らしたりしない。
そのアバンギャルドなデザインからは想像できない人物像。
アジア人の視点でみると、欧米人には珍しく、人に嫌われたくない、好かれたいといういじらしさが、隠されることなくそのまま伝わってきました。
でも!自分がデザインした服には一切の妥協をしない。
僕はいつか突然流行遅れになる、という言葉が、世間のトレンドのめまぐるしさを物語ります。
夢を売る商売は、とても刺激的で美しい。
ガザ 素顔の日常 [ドキュメンタリー]
■今こそ見るべき作品。そこに住む人たちは自分たちと何ら変わらないという、当たり前のことをきちんと実感する
中野のシェアカフェ、una_camera_livera さんで、ウナカメ夜シネマに参加。
今回は2019年の映画「ガザ 素顔の日常」。
アメリカ大本営の映像や発表に追従しているばかりの日本では、過激派アラブ人のイメージばかり先行してる感がありますが、パレスチナ人の家族思いで社交的で情熱的な一面が知ることのできる一作です。戦争がなければ、どこよりも穏やかで親切で礼節を持ちあわせる民族なのかも知れません。検問所が閉じられているため、南北40キロ東西10キロのガザ以外にどこにも行けないガザ市民。
見ながら様々な疑問が渦巻きます。
・ホロコーストを経験したユダヤ人だちが、同じことをアラブ人にしていることに対して、何も感じないのか。 ・イスラエルはガザ市民を根絶やしにするまで攻撃をやめないのか。
・パレスチナ政府はガザ市民が逃げ出すとイスラエルに占領されてしまうから他のパレスチナ地域に移動させないのか?それともできないのか?
・ガザのパレスチナ人は自由になったとしてその先ユダヤ人とはどういう関係を築きたいのか… 様々な疑問が渦巻いたまま、ドキュメンタリーでは不安の裏返しから少しでも明るく生きようとする人々と、行き場のない怒りから攻撃に転じ負傷する若者たちの姿も描き、そこには何の解も見いだせません。
ただ、平和に日常を過ごしたいだけなんだ、という切々とした彼らの訴えが頭にこだまします。十字軍の時代から、一方的な西洋の聖地奪還という大義名分で戦禍の地になったパレスチナ地域。ww1のイギリスの三枚舌により、イスラエル建国で勝手に割譲されたパレスチナ。ただそこに生きている人々の声など全く反映されない、政治のパワーゲームで苦しむのはいつも民間人です。
〈料理〉
ちなみに中東料理の提供は、ハラフェル(ひよこ豆ベースのハンバーグ、ラぺ(人参とレーズンの酢漬け?)、フムス(ひよこ豆のペースト)、ババカヌーシユ(茄子のペースト)でした。
ウナカメ夜シネマ「マヤ―天の心、地の心―」 [ドキュメンタリー]
■マヤの静謐な語りと破壊される森林の対比が痛々しい
中野にあるウナ・カメラ・リーベラというシェアカフェの上映会に参加しました。
「マヤ~天の心、地の心」という、グアテマラのマヤ文明の末裔の先住民が直面する問題を扱った、2012年のドキュメンタリーです。
金の採掘のため、森林と山を根こそぎ破壊する米・カナダの大企業と、土地を売り飛ばす政府。その破壊っぷりはすさまじいものでした。シアン化合物で汚染された井戸水、政府や企業から脅迫される住民。スペインの次は、内戦により政府から迫害され、そして次は企業から土地を奪われる。
ただ普通の生活をしたいだけなのにという願いは空しい。
彼らはそれでも「地球を、大地をこれ以上傷つけないで欲しい」と語っていました。
自分たちを、じゃない。
本来なら「私たち先住民を傷つけないで」という台詞が真っ先に出てくるはず。
そうではなく、「私たちは大地を地球から借りてるだけ」だと、しきりに大地と自然と人間とのつながりを訴えており、そこに強く揺さぶられました。
若きシャーマンは「長生きはしたくない。でも人類の未来が心配」と語り、自分たちの誇りと大地を守るために立ち上がった人たちは、「マヤの人たちは時の円の流れに自分たちはいる」と考え、今生きている人間だけが自然や富を蹂躙するべきではないと考えていました。
モンサントの遺伝子組み替えトウモロコシが市場を席巻する中、売れずに儲けにならない原種に近いトウモロコシを必死で栽培している姿にも心打たれました。マヤの「木の人、トウモロコシの人」という神話が興味深かったです。
私はなんの力にもなれないけれど、でもそういった企業に金を落とさないという選択肢を選ぶことはできる。一つの商品の背景を、今後も注意深く観察していこうと思いました。10年経った今のグアテマラが心配でなりません。
上映後の主催者さんとの交流も興味深く、勉強になることばかりでした。
ちなみに料理付きを選んだら主催者さん手作りのトルティーヤ弁当が供されとても美味でした。
人生クライマー~山野井泰史と垂直の世界完全版~ [ドキュメンタリー]
■彼らの歩むのは「登山道」ではなく登山「道」だ
新年、憑き物が落ちたような、さっぱりとした気持ちになりました。
まるで澄んだ青空の下、なにもかもから解放されたような。
死がせめぎ合うときの命の手触り。
「あんな孤独感のある、スポーツって他にあるのかな」
「あんな達成感って他のことで得られるのかな」
二つの相反しているような言葉が、登山そのものを物語っているなと思った。
安全な登山なんてないと言ったのはラインホルト・メスナーだったかな。危険で難しい課題だからこそ挑戦したくなるのだから、当たり前ですよね。
それは命を粗末にしてるんじゃなくて、生きていることを輝かせてくれること。
そして、人に与えられた娯楽じゃなく、作られた娯楽じゃなく、地球すべてが遊び場で、自分で見つけにいく。
この単純明快でかつ力強い生き方がほんと、いい!!
柔道、茶道、剣道などと同じ、どう生きるかという哲学を含めた道(どう)をあてがって、まさに登山「道」と評したい。
私も登山をしますが私の「好き」は、彼らの好きの足下にも及ばない。これだけの情熱をかけられるものに出会えた人たちが本当に羨ましい。そして彼らのような挑戦者がいるからこそ、人間の限界を知ることができる。そのことに純粋に尊敬してしまうし、自分では見ることのできない景色を見せてくれることが、単純に嬉しい。
しかし人間というものは他の動物に比べて、肉体的には本当に不器用な生き物だなぁ…としみじみ。
アルピニスト [ドキュメンタリー]
ロープなし、下見なし、電子機器無しでフリーソロ。
とんでもないクライマー、マーク・アンドレ・ルクレール。
フリークライミングなのに下見なしって、本当にとてつもない…。 映画【フリーソロ】で極限のクライミングを見せてくれたアレックス・オノルドが霞んでみえてしまうぐらい。
驚いたのは、この映画でも出演しているオノルドが、スポーツとしてフリーソロをやっているが、ルクレールは違うと発言したこと。【フリーソロ】をみたときは、どちらかというと、今作のルクレールに近い感性の人だと思っていたから。
オノルドはロープで下見し、ルートを練り、安全な登り方を何度も反芻して頭にたたき込む。
相反してルクレールのほうは、事前に天候や地形図を観てはいるが、初めての山(ルート)での経験や体験そのものを楽しんでいる。精神構造が違うんですね。
しかも、オノルドよりも危険なことをしているのに「ルクレールなら落ちない」という謎の安心感を与える。
フリーソロよりも、格段に落ち着いて見ていられた。 きっと、ルクレールの精神のあり方が画面を通して伝わってきたのだと思う。禅の修行のように、登る前のことは忘れ、登った後のことは考えない。
一つ一つ、本当にその瞬間を心穏やかに噛みしめている。
そのスタイルは、初めて人類が未開の地へ赴くときのように、一つ一つに驚きと喜びがこもっていると同時に、野生動物のようにひどく自然体でもある。
鳥がなぜ飛べるのかを鳥自身が考えないように、ルクレールも自分が登れること自体を疑問に思わないのだろう。
だから、危険なことをしてるのはわかるけど、自分は危険なことを楽しんでいるわけではない、と彼は答えたのだと思う。
ーークライミングをすると、人生がシンプルになる。
ーー達成したこと自体が人生を変えるわけじゃない。そこに到達するまでの旅が心に残る。
いい言葉。私も登山をしますが、美しい風景を見ると共有したくてヤマップやインスタについ、あげてしまう。 目的がすり替わってしまうこの世の中で、自分の好きなことを体験と経験としてだけ個人のうちに留めておける人間が、果たして今いるのだろうか。
彼は劇中、登山前に食べる食事についてこう答えている。
「いつ雪崩などにあって死ぬのかわからない。だから人生最後だと思って好きな物を食べている」
「自然が相手だ。こちらがコントロールできるわけじゃない」
まさに懸念していたことが彼に起こったわけだが、心に残る生き様だと思いました。
登山興味あるなしに関わらず、彼のことをもっともっと人に知ってもらいたい。
少なくとも、私は忘れないし忘れたくない。
コレクティブ 国家の噓 [ドキュメンタリー]
■無力感と向き合いながらも問いかけるもの
一人一人の面倒なことに巻き込まれたくないという保身が、大きな歪みとなって跳ね返ってくる。
SNSー少女たちの10日間 [ドキュメンタリー]
■人の性的嗜好を矯正することができないのであれば、どう危険を回避するかを学ぶしかない
専門家が言う。「彼らは幼児性愛者ではない」と。
SNSで少女に扮する女優たちに接触してくるのは、一般的には「普通の男性(女性)」たちだ。
支配欲という誰もに少なからず内在する欲求が、何らかのきっかけで暴走する。
実験で明らかになったように、その欲が子供に向かいやすいのは、ただ単に大人より知恵が無く・扱いやすく・脅せば容易く操作できるからだろう。
子供に性的興奮を覚える嗜好が全人類にあるわけではないが、特別に特殊でもないという事実は受け入れがたいものがある。彼らはゲームのように、少年少女に命令を下すたびに達成感を得て、未成熟の段階の開発されていない精神や体を弄ぶことに高揚せずにはいられない。
しかし、しつこい。頻繁に登場する男たちのなんとしつこいこと。囮になった女性3人が断り続けて諦めた輩も大勢いるなか、ふるいにかけられた(?)者たちのこの粘着質なパワーは一体どこから?と嫌悪感をもよおすとともに、その心理を不思議にも思う。
男性を貶めるつもりはないが、やはり傾向としては男性の方が精神的つながりのない人間に対しての性的欲求は女性よりも強いのは明らかだ。
今回チャットの様子を見ていて感じた恐怖は、相手が離れた場所にいるにも関わらず、その場を支配されるかのような心理にさせられることだった。不思議なもので、人間は命令され続けると思考停止してしまうらしい。
SNSはネットなのだから、きっぱりと接続を切ってしまえばいいだけなのに、何かしらの報復が怖くなりそれができなくなってしまうのだ。
実験は先に進み、実際に接触者たちと会うところまで踏み込む。少女を演じる女優たちとカフェで話している接触者たちは、実際に性的行為へと話を持ち込まずに終了することが多かったが、それはただ単に勇気がないか、理性が押しとどめただけであり、彼らの中に性的行為への欲望があるのは表情からも明らかだった。
接触してきたなかにはカップルもいて、3P目的の女性もいたのには驚いた。
少女たちが事なきを得たのはたまたまであり、本当にラッキーなことなのだ。
この映画で行われていることは半ば囮捜査のようでもあり、食いついた人たちを煽るだけ煽って焦らして、わざと犯罪者に仕立てているようにも感じなくもないが、しかし接触者たちは、この機会がなければ別の子どもを標的にするだけだろうし、そのことは社会の知らずうちに行われるだけの話なのだ。
と考えれば、いかに子どもたちが危険な状態にさらされやすいのかを分かりやすく炙り出したこの実験は、とても社会的に有意義なものだと思う。
かなり衝撃的ではあるが、中高生の教育現場で見せてほしいぐらいだ。
おそらく、どんな罰則や刑罰を与えても人間の性的嗜好や性格を矯正することはできない。
だとすれば、SNSの危険性や言葉の暴力や命令に対してどう抗うのか、その術を子どもや親が学んだ方が早いのではないか。
唯一チャットでまともだったのが、大学生の若者だったというのも皮肉で、モザイクが晴れるとともにこちらの気持ちも少し晴れていくようだった。
ミッドナイト・トラベラー [ドキュメンタリー]
■難民の置かれた状況は生き地獄にほかならない
タリバン政権の恐ろしさというより、各国で難民がどう扱われるのかという実態の一部を描く映画。
感情と感覚に訴えかけてくる抽象的な描写が多く、細かな点でハッサン達が置かれた状況の不明点も多い。
たとえば
・スマホの通信費用は誰が払っているのか(動画は通信しなくてもとれるが、娘はネットでMichael Jacksonの動画を閲覧していたし、ハッサンも電話をかけていたことから通信機能は制限されていないと推測)
・トランジットから家族は出ることができたのか
・映像は誰に手渡され、商業ベースにのることができたのか
日本語の持つ曖昧さがそうさせてるのか訳が悪いのか、娘の最後のセリフが過去形なのか現在進行形なのかが、わからない。
最後にたどりついたのが自由への一歩を踏み出せる場所であるはずなのに、監獄を象徴する最低の場所だったという絶望を受け、見終わった後もあの家族はトランジットから無事解放されたのかが気になってしょうがない。
そして、そうか、この曖昧で不安な状態がほんの少しでも難民に近しいのだとしたら、観客がこのまま放り出されることに意味があるのだな、と気がつく。
否が応でも日本の入管の事件を連想する。ネットなどの書き込みでは、不法入国者は犯罪者だと辛辣なコメントも飛び交う。だが、彼らはただ単に「安全な場所で働いて、生きたい」と渡ってきただけであり、生来は殆どの日本人となんら代わりのないただの小市民だ。言葉のわからない国で、手続きのミスや悪質な斡旋業者のせいで収監された人もいる。
本来、人間の数が少なければ、好きに移動して好きな土地に住み着くことだって構わないだろう。生来、人間も動物なのだから、どこに住もうと自由なはずなのだ。
ハッサンたちは、国家の枠組みと管理により「人間」から「難民」にさせられているだけ。そして犯罪に手を染めなけれ暮らせないような状態に追い込まれいるだけなのだ。
彼らがアフガンで生まれなければ?
聖職者やCIAの犯罪を堂々と描くアメリカ映画や、ナチスの罪を描くドイツ映画のように、国家を糾弾する映画を撮っても、スタッフや監督は自由を阻まれることなく暮らしていただろう。
しかし世界が誤解しない方がいいのは、恐らく大多数の難民は愛国心を持っていて、子供への危害や紛争がなければ母国に帰りたいと思っていることである(勿論難民キャンプで生まれた世代ではまた違うだろうけれど)。
なのでシュプレヒコールで「母国へ帰れ!」とうのはとんでもない愚かな言葉で、彼らだって母国に帰りたいのは山々なのだ。
ジャレド・ダイアモンドの著書『危機と人類』の日本の章で、日本の難民の受け入れが低いことに言及していた。
西洋のモデルを例に、難民を受け入れベビーシッターなどとして雇うことにすれば、女性の産後の社会復帰にも役立つと提案していたが、この例が現実的ではなくても、難民を閉じこめておくのではなく市民の一部として社会活動に加える枠組みが早急に必要だと思う。
マイケル・ジャクソンは正義や差別や偏見と闘う歌を作ってきた。ハッサンの子どもが、意識的にしろ無意識にしろ、あの状況でマイケル・ジャクソンを選んだ感性が泣けてくる。
「グレタ ひとりぼっちの挑戦」で思う環境保全活動が提示する格差社会の未来 [ドキュメンタリー]
グレタについて知人でもない限り映像以上のことは知りようがないので。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
移動手段でCO2を排出する最たるものとして旅客機のことがもっぱら攻撃されているが、庶民が飛行機に頻繁に乗る回数はそれほど多くはないだろう。私も人生で旅客機を使った回数は15往復ぐらいしかないように思う。車がないので、旅はもっぱら電車を利用する。
米国でも、
〉NPO国際クリーン交通委員会の新たな分析結果によると、アメリカ人で飛行機をよく利用するのは少数派で、年に6往復以上利用しているのは全体の12%。この人たちが空の旅全体の3分の2を占めている。(新聞より)
またグレタのように世界中の人がヨットで横断できるわけがない。あれはパフォーマンスの部分が大きいとは思うが、結局クルーやスタッフがヨット回収や人員移動のために飛行機を利用したので、批判を呼んだ。ヨットだとて、GPS機材・帆やマストにつかう素材・船体に使うカーボンや燃料など、そもそもヨットすべてがエコなのか?という疑問もわいてくる。
もし全世界の住民に、移動には船舶やヨット利用を推進したとしよう。
・搬送人数が少ない
・難破が増えてヘリや船での捜索が増える。
・豪華客船などの大型船舶が増えれば化石燃料に頼ることになる。
これらを踏まえれば、旅客機よりも戦闘機など足並みそろえて世界の軍備を減らすほうが、いいのではないか。(しかしそう簡単にはいかないのが政治の裏表)
移動を必要とせずネットで仕事ができるようになろうとも、サーバー保持のため電力消費が増える。電力が増えれば、グレタの反対する原発の見直しをせざるを得ない。
人が移動することが悪になってしまうのなら、人間は生まれながらの土地に縛られることになる。食料自給率の低い国では、当面輸入に頼るしかないだろうが、それも制限されると経済が停滞し、輸出で儲ける農家にダメージがでる。急な方針転換は食品ロスや廃棄も生むだろう。そして第三国の農業国家は貧困に陥ると働き手として児童労働に頼るため、最たる人口加速を生んでしまう。
結局のところ、何かが減れば何かが増えるのであり、人口そのものが減らなければ抜本的解決はない。人口が漸減していくのが理想だろう。
過度な環境推進は、格差社会を特権階級や国家権力が庶民に押しつける口実にもなり、危険もはらむ。
グレタ支持団体は貧困層の経済的救済策の具体例をどんどん提示していかなければ、アンチが増えるだけだろう。
しかし彼女は一人一人の意識に強烈に訴えかけることには成功した。
折しも急に国連がSDGsを推進し始めたことも、追い風になっている。
食品ロス、家電の安易な廃棄、フリマアプリの活用、農産物の地産地消、個人ができることは限りはあるが、できることはある。外来種のペットを不買し、動植物を守ることから始めることも、環境保全に通じる。
しかし来るべく食料危機に備え家畜を食すことに罪悪感を植え付け、昆虫食を進めようとしている昨今のメディアの風潮は、やや怖いとも感じる。
食糧危機が起きたとして、はたして金持ちが昆虫を食べるだろうか?
自分が富裕層なら、まず食べない。農家に金を払い、うまい肉を確保するだろう。
そして低下層の人間は昆虫を食べさせられるというわけだ。
環境保全活動そのものには大いに賛同するが、その裏で首を傾げる政策や企業活動が邁進しているのも事実。
その一つにレジ袋の削減は意味がないのではという指摘がある。
・結局ゴミ袋としてプラスチック袋を利用すること
・レジ袋はプラゴミの全体の2%でしかないこと
・マイバッグの製造過程の方が環境負荷が高いこと
・焼却炉で燃やすときに別の燃料を入れること(レジ袋の原料は原油であるため燃やすと熱効率を上げられた)
また、レジ袋有料に伴い紙袋も有料化するなど環境口実にした店の便乗値上げなどもあり、消費者は注意深く判断していく必要がある。