マルタ騎士団 知られざる領土なき独立国 [■BOOK・COMIC]
満足度★70点
日本人騎士も二年前に誕生、最近テレビにも出演し話題となりました。これはその武田さんが書いた本。
現存するマルタ国のマルタ島をナポレオンに追い出されるまでは一時領土としていたが、今は其の国とは関係ない(関係なくもないけど)。十字軍という歴史の側面を面白く学べるが、手放しで称賛する組織とも言い難いことがわかった。
マルタ騎士団になるには、在来騎士による完全スカウトのみ。条件はキリスト教徒で人道支援に従事しているかうんぬん。代々貴族のみの出自構成だったが、貴族の条件は撤廃。
結局政治的組織であり、現在も超金持ちの白人貴族がほぼ占めていることを考えると、きれいごとではない選民思想も垣間見える。しかし稀に宗教の教えはとんでもない善人を生み出すこともある。混ざり気のない信念を与えるのも、宗教の力の一つ。
「持てる者たち」の喜捨精神がどこまで現代で影響をもつのか、期待したい。
2023年に読んだ本(23冊)&ベスト5 [■BOOK・COMIC]
このなかで社会的に読んでよかったと思う本は「ジェフリー・エプスタイン 悪魔の顔~」、「マルタ騎士団」。世界で起きていること、また世界は広いことを思い知った本だった。
ただマルタ~は騎士団称賛のきらいがあるのでベスト5にはいれなかった。
フィクションとして面白かったのは「ザリガニの鳴くところ」。人間が動物の様に、生命の危機にあった時に邪魔者を排除するということを、誰が一体さばけるのか、そもそも裁くべきものなのか、生きることの根源を問うた本。逆にノンフィクションでクライマー山野井泰史に肉迫した「凍」。やはりこれも生きることの根源、本能、そして生きる喜びとは何かを考えさせれた。登山は危険なことをすることが楽しい行為ではない。自分の極限を超えてただその頂きに魅せられたその姿には、人間の好奇心と冒険心があらゆるジャンルにおいて道を切り開く原動力なのだと思い知らされる。
逆に残念だったのは、ミレニアムシリーズ。好きなシリーズだっただけに、やはり1作目作者の死は痛いと感じた。
・アラスカ永遠なる生命(星野道夫、2003.6.1、小学館)
・神が愛した天才科学者たち(山下直久、平成25年3月25日初版、角川ソフィア文庫)
・ミレニアム5/復讐の炎を吐く女(上下)
★バッタを倒しにアフリカへ(前野ウルド浩太朗、2017.5.20初版、光文社)
木村正彦はなぜ力道山を殺さなかったのか [■BOOK・COMIC]
KIMURA vol.0~木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか~ KIMURA~木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか~ (アクションコミックス)
- 出版社/メーカー: 双葉社
- 発売日: 2016/04/15
- メディア: Kindle版
デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場 [■BOOK・COMIC]
栗城の人物評価★30点
デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場 (集英社学芸単行本)
- 作者: 河野啓
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2020/11/26
- メディア: Kindle版
「単独無酸素、7大陸最高峰」 登場した時、この言葉だけでインチキ臭いと思った。
偽者というより「誇大広告」で「詐欺師」でただの「テレビ屋」。
そう思い、この人の登場するテレビ番組は全く見なかった。
なので、エベレストで滑落死の報を聞いて非常に驚いた。あのレベルの人がそんな無謀なことをやったのかと。
そして改めてこの本を手に取った。むしろ死してから興味をもった。
そしたら案の定、お笑い芸人になるために一時期吉本の養成所に入ったそうじゃないですか。
これは完全にテレビ屋ですね。
「それにしたって6大陸最高峰行ったのは凄い」と人はいうかもしれないが、 はっきりいって処女峰でもない手垢にまみれた山のルートなら、残置ロープやらなにやらたくさんあるし、若いうちは体力で凄い山も登れちゃう。
一人だとしても他のツアーやパーティーの後を付いて行けばいいだけだ(実際他のパーティーがおいて行ったテントを勝手に使ったこともあったという)。
曲がりなりにも「登山家」というならば、未踏のルート開拓や、既知のルートでも誰もなしえてない条件で登頂することが必要だと思う。
で、結局若さと勢いだけじゃどうにもならなくなって、技術を磨いてこなかったため滑落に至った。ただそれだけ。
「この人は山が好きなのではなく、有名になる手段として山を選んだだけ」と確信。
本来、山が本当に好きなら日本の山にどんどん登りにいくのだ。それを講演会に時間を費やしてほとんど登りに行っていない。しかも北海道の羊蹄山に、冬とはいえ玄人なら一般人でも登れる山を登れなかったという。
彼が登山界に近寄って技術を磨いてこなかったことからも、王道の研鑽を怠ったということだろう。
それにもまして明らかになる驚きの事実…。
・アイゼンやピッケルなど、命を預ける道具を人から借りる。手入れして返さない(手入れの方法も知らなかったのだろう)。
・間違った健康法(タンパク質を食べない「マグロのような体が理想」という弁)
・間違ったトレーニング(藤原紀香の行っていた加圧トレーニングを実践) 加圧トレーニングを否定するわけではないが、それをやるぐらいなら登攀技術を磨いたらどうだろう。彼は大学の登山部が登れる壁すら登れなかったというのだ。
・シェルパが亡くなった翌日、テントの外で撮影用の凧揚げをしていた。シェルパたちの中で「こいつは登る気がない」という雰囲気が漂ったという。
栗城の先輩の若手起業家、山本壮一氏の栗城への評価は「おめでたい人」。
「そのおめでたい人をなぜかみんなが支えてしまうんですよ。そこが彼の最大の魅力というか、最大の恐ろしさというか」
純粋で面白いことを見せたい、共有したい。その思いはぶれなかったとは思うが、エベレストはその思いだけでなんとかなる場所ではないし、人命を軽視しないために人一倍努力しなければならないのだ。実際シェルパもなくなっている。だけど、30を越えてそんなことも理解できないのかと人は離れていった。
故人が何に挑戦して何で命を落とそうが自由だ。だがこの人の悪行は一般人が勘違いすることをわかっていて確信的に「7大陸単独無酸素」というキャッチフレーズを用い、正当な評価を受けるべき登山家からその機会を奪ったことだ。
スノーデン:独白 消せない記録 [■BOOK・COMIC]
■自分事と捉えるべき事象
政府で働く人間たちが全体意識として監視という行為を容認しているわけではなく、あまりにも細分化されたタスクにより「罪の意識」がないことが問題でもあると感じた。「誰からの、どういう理由で、何のために」という重要な部分が抜けたまま、上位に位置する人間のきまぐれで個人の情報は赤裸々に暴かれてしまう。
このような話になるとよく、「自分にはやましいことがないから問題ない」という人がいる。
何の令状もなく個人に承諾もなく個人情報にアクセスできることは、スノーデンの言葉を借りると「道をはずれたことをやったら、きみの私生活をネタにしますよ、という政府の脅しに等しい」のであり、許してはいけないこと。
民主主義とは、目を光らせ手を加え続けていかないとあっという間に形骸化していく。それが、市民や国民に課せられた「終わらない仕事」で「終わらせてはいけない仕事」なのだと思う。
〈抜粋〉
・一般利用者の観点からすると、クラウドはただの保存機構で、データが個人デバイスではなく各種のちがうサーバに保存されるようにするもので、そのサーバは極端な話ちがう企業が所有して運用してもいい。結果として、データはもはや本当に自分のものではなくなる。企業がそれを統制し、それをほぼどんな目的のためにでも使えるのだ。
(中略)企業は、どんな種類のデータを保存してくれるのかを決められるし、気に食わないデータはあっさり削除できる。自分のマシンやドライブに別のコピーを持っておかないと、このデータは永遠に失われてしまう。
・台所に鎮座する将来のスマート冷蔵庫が、ぼくの行いや習慣をモニタリングしてカートンに直接口を付けて飲むとか、手をきちんと洗わないとかいった傾向を使い、犯罪者となる確率を評価するところを想像してみた。
・道をはずれたことをやったら、きみの私生活をネタにしますよ、という政府の脅しに等しい。
・10年にわたる大量監視の後で、この技術はテロに対する兵器としての威力よりはむしろ、自由に対する兵器として協力だったことが明らかになった。こうした計画を続けることで、こうしたウソを続けることで、アメリカは何も守れず、何も勝ち取れず、大量のものを失っていた―そしてやがてはポスト9・11の「われわれ」と「あいつら」との間にほとんど差がなくなってしまう。
・市民の自由は相互依存しているから、自分のプライバシーを譲り渡すのは、全員のプライバシーを譲り渡すに等しい。
(中略)あれやこれやといった自由が、今日の自分にとって意味がないからといって、それが明日には自分や、ご近所や―あるいは地球の裏側で抗議していた、整然とした反対者たちの群衆にとって意味がないということにはならない。
・アメリカが諜報を共有する主要国、ファイブアイズ=オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、イギリス
すべてを知る=そのデータが何かを突き止めること
すべてを集める=そのデータを補足すること
すべてを処理=そのデータを分析して使える諜報を探す
すべてを活用=その諜報を使ってNSAの狙いを実現すること
すべてをパートナー=そのデータ源を同盟国と共有するということ
・2013年、国家情報長官ジェイムズ・クラッパーは上院・特別情報委員会でNSAが市民の通信の大量収集を行っていないと先生の上で証言。「うっかり集めてしまうかもしれない場合はありますが、でも意図的に行うことはありません」と発言。これは議会のみならず、国民に対する意図的な臆面もないウソだった。
・Tor
https://ja.wikipedia.org/wiki/Tor
サードマン [■BOOK・COMIC]
テロ(書評) [■BOOK・COMIC]
■命の尊さは数で比較できるか
旅客機をハイジャックしたテロリストが、7万人が詰めかけるサッカースタジアムに旅客機を墜落させようと計画していた。
時間が迫るなか、コッホ空軍少佐は命令に反して旅客機を撃墜する。
彼を無罪にするべきか有罪にするべきか、という思考実験的な話である。
同著で提示されている法的根拠からすれば有罪となる可能性は高いであろうが、それとは別に自分なりに考えてみました。
断腸の思いで…やはり有罪にすると思う。
なぜなら、「どうして観客を逃がすことを提案しなかったのか」という検事の言葉にギクリとしたから。
コッホ含め、登場する軍の関係者らは「7万人か100人どちらを犠牲にするか?」ばかりを考えて、「全員が助かる道」を考え尽くしたといえないと思った。
もし検事の言うとおり、「コックピットに乗客が入り、テロリストを拘束する」可能性があったとしたならば、コッホは乗客が生き残ることができる一つの手段を奪ってしまったのである。
どちらも手を尽くした結果、死に至るのはしょうがないと思う。
もちろんコッホには悪意はなく、彼なりの正義から行った行為ではあったのだろう。
しかしそれも絶対そうだとは言い切れない。何故なら他人の思考を科学的に計るすべが無い限り、「彼の行為が良心から来るものか」を断定することはできないから。
法で裁けるのは結果でしかない。一個人が同意もなく生殺与奪してはならない。
映画【ダークナイト】でもジョーカーが無辜の人々の命を、同じように天秤にかけたことがある。
罪人達だけが乗る船と、一般人が乗る船それぞれに爆弾を仕掛け、両方にスイッチを渡し、先にスイッチを押した方を助けるというのだ。
両方の船で、命をかけた議論が巻き起こる。なんと一般人がスイッチを押すことを先に提案する。「相手は悪人だから」という理由で。しかし罪人達が先にそのスイッチを捨てるのである。
ここでもしどちらかがスイッチを押してしまったら、ジョーカー=テロリストの言いなりになったも同然だろう。
彼らは他者の命を奪う権利は誰にもないと考え、もしその結果全員がジョーカーに殺されてしまったとしても、希望を捨てなかったことをテロリストに示せると考えたのである。
そして最後まで生き残る可能性があることを信じ続けた結果、全員助かるのである。
もちろんこれは映画の話なので理想論的な結末ではある。
「たとえば一人が死ぬことで、種の絶滅を防ぐことができる」などの条件が与えられたら、意を翻して命を数で比べてしまうのではないかと思ってしまう自分もいる。
ハイジャックしたのが、これが致死率100%の ウイルスを抱えたテロリストだったら?
国が混乱に陥ること必至の要人ばかりが搭乗していたら?
悲しいかな、人間は完全平等にはなりえない。
種の保存上、秤にかけるのはしょうが無いのかもしれない。
それに人間は人間以外の動物が増えれば殺すし、絶滅危惧種は保護をする。
それは命を「数」で秤にかけていることに他ならない。
そうやって、頭の中はどうどう巡りになる。
しかし法治国家の原則が崩れてしまい、その後に待ち受けている世界を考えると恐ろしい。
結局、私たちは御託を並べてルールを決めて生活しなければならず、そうして決めたルールを、自ら放棄してはいけないのだと考える。
完全なる法治国家に少しでも近づくために、法律自体を見直し続けること。
改めて基本中の基本を、この本で教えてもらった気がする。
巻末に、風刺画がきっかけでテロ被害にあったシャルリー・エブドに向けて語った著者のスピーチが、掲載されていた。
「あなたの雑誌は軽佻浮薄で、激烈で、ふざけるなと言いたいくらいです」としつつも、
「しかしそうすることで、わたしたちの自由を表現し、具現化してもいるのです。あなたの雑誌は何百年にもわたる闘争と抑圧と苦悩の末に作り上げられたこの世界の一部なのです」と語っていた。
表現の自由の尊さを語る、簡潔で明瞭で模範的な答えが提示されていると思う.
ホワイトジャズ [■BOOK・COMIC]
満足度★90点
■ 毒をもって毒を制すとは
文化の日。
エルロイの「ホワイト・ジャズ」読了。
LAコンフィデンシャル、ブラックダリアの記憶をほじくりかえす。
様々な人物と思惑が螺旋になり、それはしぼむどころか大きな竜巻となって、周囲を巻き込み蹂躙しながら昇華していく。
疲れ/毒気にあたられ、でも不思議な活力をもらう。抗えない魅力。
自分を嘆くだけの害のない引きこもり気質の人間より、精力的な害のある悪人を好む自分を再発見。
人生に意味を求める=他力本願、人生に意味を見いだす=能動的。
前者は近年の邦画に多く、後者は米映画に多い。だからか惹かれない邦画が多い(要するにへたれが多数登場し、暗い)。
ダドリー・スミス、これだけの精力的な悪を他に知らない。そして憎めない。
砕け散るところを見せてあげる [■BOOK・COMIC]
満足度★65点
■工夫はされているが、ラノベを払拭しきれていない
一人称の視点を変えた小説。
一読すると語り手が変わったことに気がつかないため、混乱するが、時系列が変節した箇所を読み返すとすぐに気がつく。
冒頭から親子のコントまでが主人公の清澄が死んだ後の玻璃と、2人の息子(真っ赤な嵐)の話。
その後の回想が、高校時代の清澄と玻璃の話。
玻璃は、父親から受ける虐待と学校でのいじめなど、辛いことは全てUFOのせいだと現実逃避している女の子。なので、成り行き上父親を殺してしまったことを「UFOを撃ち落とした」と表現されます。
そして、そのUFOを撃ち落としたことで「死んだのは二人」と大人の玻璃は言います。その二人とは…
- 玻璃のお婆ちゃん⇒人差し指
- 玻璃のお母さん⇒中指
- 玻璃の父親⇒親指(玻璃が殺す=玻璃のUFOを撃ち落とした)
- 清澄⇒薬指(玻璃を助けられなかった後悔から?水難者を助けて溺死=自分のUFOを撃ち落とした)
ということで「UFOを撃ち落としたことで死んだのは二人」、玻璃の父親と清澄。
ここまではただの事実を紐解いただけで、ここから先は「何故清澄の心に新しいUFOが浮かんだか」という疑問を、私なりの解釈で書いていきます。
清澄は、父親殺しというもっとも深い業を玻璃に背負わせたこと、また結果的に助かったとはいえ、自分自身の手で玻璃を助けられなかった不甲斐なさからか、後悔の念を背負ってしまう。
それを⇒新たなUFOの出現と表現。
名前を変えた玻璃と「俺たちは再び出会ってしまった」ため、二人は共に清澄の母も含めて三人で暮らす。
しかしそれは名前を変えた「新しい」玻璃であって、あの日のことをなかったことにした仮初めの玻璃。
玻璃も清澄のUFOは見えていたことから、彼の思いは痛いほどわかっている。
清澄はずっと玻璃と名前を呼んでいなかったことから、あの話は新しい玻璃の心の中に封印していたのだろう。
でもそれでは清澄の気持ちは報わず、助けられる命を助けたいというhero願望は消えなかった。
そして、偶然水難者を目の当たりにし、助けに入ったとき、自分のUFOを打ち落とすことができた…。
もしかしたら、UFOは清澄の恐怖心の具現化されたものかもしれない。
玻璃の父親に半殺しにあったあの日、本当は死力を尽くせば動けたのに、彼はどこかで諦めてしまった。殺される恐怖におののいた彼は、玻璃の父親の影に(存在しないにも関わらず)怯えて生きていたのかもしれない(一種のPTSD?)、ともとれる。
ただこの解釈もストンと腑に落ちない。ただの後悔なら一生玻璃の側にいてやればいいわけだし、heroになりたいことへの妄執なのだとしたら、…それにとらわれて、結局新しい玻璃も置き去りにしたことになる。
いずれにしても愛する者を置き去りにして1人逝った清澄に、あまり私は共感できない。
他のレビューで「スマホが光った」のはどういう意味か、と書いているひとがいましたが、あれは玻璃の息子からだと思います。
この描写以前に彼から「台風中の天気レポーターとしてテレビに出る」と着電があったことから、再び無事を知らせる着電があったことを示唆しているものだと思う。
「真っ赤な嵐」という表現は産み落としたときの状態や、新しい生命の比喩だと思いました。
砕け散るところを~というタイトルは、もうそれこそ直接的に父親の頭蓋骨というか、UFOを打ち砕くことでしょうね。
評判の悪い帯の文言の意味は、ただ単に死んでもその細胞は息子に受け継がれているということなのでは。
駆け抜けるように読めるいいお話ですが、ちょっと比喩が陳腐なきもしますし、全体的に台詞が青臭くてラノベ感があります。
筆者はラノベ界で人気だった方のようですね。
そのため、帯が大言壮語だと思われます。ハードルは上げなくていいと思います。
私は清澄が、殺されかけた時に必死で指を上げる場面で、胸をキュッとつかまれました。
ダン・ブラウン【インフェルノ】とダンテ【神曲】 [■BOOK・COMIC]
★満足度40点
最近、フィレンツェづいている。
常々ダンテを読もうと思っていたところ、タイムリーに【インフェルノ】が登場。
さらに追いかけるように、上野でウフィツィ美術館展も見てきた。
ダンテの【神曲】。
この、西洋美術史や絵画に何にでも登場する神曲とやらに凄く興味は持っていて、満を持して読み始めたが…。
うーん、結局、私の心には何も届かなかった。
キリスト教徒ではないのだから、当たり前と言えば当たり前だけれど、もう少し起伏のある物語性があって、神学を説きつつ普遍的な感動をもたらしくれる物だと思っていたが、全くの見当違い。
煉獄では、ダンテがローマの哲学者ウェルギリウスに導かれ、歴史上の著名人たちに出会い懺悔や讒言を聞き、その罪に応じた責め苦に苦しむ亡者たちの7つの坂を登るのだが、ただ会話と事実の羅列のみで、仰々しい形容詞ばかりが並ぶ。 (ちなみに図書館で借りれず、地獄編だけ未読)
天国編でもハッと思わせる叙述はなく、ひたすらベアトリーチェを讃えるさまは、なにやら盲目的を超えて滑稽にも思えた。 神よりも常にベアトリーチェを讃えてるのだから。
だけどまあ、魂が原罪の罪に染まるタイミングという解釈は、西洋人の物の考え方を知る一助にはなった。
洗礼を受けていないまま死ぬと、原罪から解放されない。だから、生まれてすぐに洗礼を行うんですね。
しかしそれだと、キリスト教に帰依するという意識がないのに、勝手にキリスト教信者になっちゃうっていうね…。
文中、ダンテ自身が持っていたであろう疑問を、天国で偉人に見透かされるという形で叙述しています。
「おまえはこう考えた。『ある人がインダス河畔で生まれたとする。その地にはキリストについて語る人も、読んで教える人も、書いて記す人もいない。
その人の考えること、なすことはすべて人間理性のおよぶかぎりでは優れている。
その生涯を通じ、言説にも言動にも罪を犯したことがない。
その人が洗礼を受けず、信仰もなくて死んだとする。
そのかれを、地獄に堕とすような正義はどこにあるのだ?
かれに信仰がないとしても、どこにその罪があるのだ?』」
しかしこれに対する答えも作者がダンテである以上、結局明快な返答はありません。
「そういった所行はきちんと神が見ている云々、オマエが考えることではない」といったような返答でした。
キリスト教って、いっつもこれ・・・。
自分の無学故もあり、神学の研究者や、当時のキリスト教徒にとっては画期的な著書なのだろうが、この面白さをついぞ感じることはなかった。別の解説書でも読んで、新たな発見があればいいと思う。
さて、ダン・ブラウンの「インフェルノ」。
「ダ・ヴィンチ・コード」や「天使と悪魔」に見られるような芸術品に秘められた謎解きではなく、自分の計画を成就させたい科学者が単にダンテの詩を借りただけだった。
時間稼ぎともいえる暗号ゲームに付き合わせるための借り物といえようか。
人間の業を重ね合わせるのに、ダンテの地獄のイメージは使いやすかったとは思うが、あまりにこじつけといえばこじつけ。
少し芝居がかかった科学者の独白も鼻白む。
「ダ・ヴィンチ・コードがあんなに面白かったのは、やはり「最後の晩餐」そのものに謎かあり、歴史の深淵を覗きこむような一種の恐怖も感じたからだろうと思う。
【ロスト・シンボル (上) (角川文庫)】あたりから、ロバート・ラングドンが振り回されるだけの展開が強くなってきた。
だが、今回の犯人がもたらした「テロ」の正体が、人間を病気にさせるような疫病ではなく、「人類の三分の一の確率で妊娠できない」ようDNAを書き換えるウイルスだった、というのには今までありそうで無かった大胆さ。
人口問題は私も心配。
このウイルス、特に大きな混乱ももたらさず、抜本的な解決になるかもしれない、などと妙に納得してしまった。
人間は目に見える危機がなければ、騒ぎはしないから。
インフェルノの後日談で、このウイルスが撒き散らされたと露見した展開になっても、一般人のなかには信じない人も多いと思う。
第三国ではそもそも状況を理解できる民度があるとは思えないし、もっと差し迫った問題が横たわっている。
先進国では「嘘でしょ?」「そうだとしても死なないんでしょ?」「誰が不妊になるかわからないし」なんて言葉か飛び交い、そのうち忘れらてしまいそうだ。対岸の火事のように。
この設定は次回作に引き継がれるのか否か。
きっとこの問題はこれで終わりなのだろうけど。