特別展「ポンペイ」 [■ART]
青い空と肌色の岩肌むき出しの色の街のコントラストが鮮やかだったことを覚えています。
ツアーだったので余りに広く、全てを観ることは時間的に無理でしたが、それでもところどころ残るフレスコ画や、公衆トイレ、パン屋の遺構など、まるでタイムスリップしたような不思議な気持ちになった、あの独特の空気を覚えています。
さて、今回のポンペイ展。写真も撮影O.K.。人間は不思議なことに、他人の写真を見ると自分も行きたくなってしまうものです。要は生!生の体験じゃないといけない! 彩色が剥落しているとはいえ、彫刻の技術は目を見張る物がある。滑らかさ、浮き立つ血管、筋肉の張り。
現地の状態を再現しようと工夫された試みも。
またアレクサンダー大王の壁画を床にプロジェクションマッピングしたり、その壮大さの一端を何とか垣間見せようとした展示方法は、今までの画一的な美術展とは違うものがありました。
完成度の高いモザイク画を搬送するのはそれだけで、気の遠くなるようなチェックを繰り返したであろうと思います。
美しいギリシャ彫刻を模範とした滑らかな大理石の彫刻群は、彩色が剥がれ落ちたことを考えても尚、神々しさを失わない。むしろ、余計な装飾がない現在の状態が、理想的な肉体美と自然美を堪能できてよいのかもしれません。
その中で一際異彩を放つ「ヘルマ柱型肖像(通称「ルキウス・カエキリウス・ユクンドゥスのヘルマ柱」)」。
解放奴隷から成功を手にした男性ですが、なんと柱の台座に乗ったトルソーの柱の下に、男根がついているのです。まるで蛇口…!
しかもそれについての解説はいっさい無し。しかも、図録にも解説無し。
しょうがないのでネットの力を借りると、ある説が目に留まりました。
「古代ローマでは短小包茎」が賢い男性の象徴で美徳とされたとのこと。
なるほどね~~。しかしそれは、本意の裏返しかもしれませんね。
全体的には大きく分けて彫刻、アクセ、モザイクと いう分類でバランスの良い展示だったと思います。
市場の様子
女神アフロディテとクピドも人間の母子のよう
炭化したパン
タコ焼き器…ではありません。ケーキ等の型
女性の膣内を確認する医療器具
こちらはパネルですが、ポンペイくん本人もいましたよ
ハリー・ポッターと魔法の歴史展 [■ART]
錬金術師※本展とは関係ありません
「非金属を金に変えたり人間を不老不死にする事ができる」という霊薬的なもの。
錬金術の記述書における「ドラゴン」などは比喩で、素材や精製方法を示す暗号化ではなかろうか。もともとは鉱石などから金を組成する化学であったはずだから、資源を奪われないようにしたのではないかとも思う。
・呪文「アブラカダブラ」に初めて言及したとされる『医学の書』。アブラカダブラの言葉を一文字ず減らして唱える方法もあるとか。
レオナルド・ダ・ヴィンチの手稿も見逃せない。
東京ステーションギャラリーの吹き抜け廻廊
●ステーションレストラン・ザ・セントラル・TOKYO
鑑賞前にエキナカのグランスタで食事。
長距離列車のレストランを模したステーションレストラン・ザ・セントラル・TOKYOで舌鼓。
https://tabelog.com/tokyo/A1302/A130201/13249439/
美術鑑賞ってけっこう時間かかるしお腹すきますね。
いやービーフシチューとカニクリームコロッケのコラボはかなり美味でした。
イサムノグチ展 [■ART]
イサムノグチは調和と秩序いう言葉をよく使う。彫刻におけるその二つとは何だろう。
例えば何の目的もなく、ただ単に岸壁や岩の前に立ったとき人はなにを思うだろう。きっとその風景は、意識にものぼらず、ただ素通りするだけのように思う。
しかしその岸壁から何かを切り出したとしたら、どうだろう。
岸壁の前に、自分と自然の間に形を帯びた岩や石が目の前に現れたとしたら。
その造形を目でなぞり、素材を手で確かめ、温度を感じ、気に入れば飽くことなく眺め続けるだろう。
イサムノグチの「調和」とは自然と人の意識との間に自然に馴染む形のことであり、「秩序」は人に自然との関わり合いを思い出させるもの、ということなのかもしれない。
印象的だったのは土偶や地蔵、禅を意識した素朴でかつ力強い形が多かったこと。日本人が培ってきた独自の象形に、命の根幹を求めるかのよう。
現代人に強く己のルーツに回帰するよう希求する、イサムノグチのメッセージを受け取ったように思う。
※余談だが、サカナクションのサウンドツアーは最初、あまりのイメージ違いに驚きました。しかし後日、イサムの生きた時代に合わせ丁寧にリサーチした上での選択だと知り納得。
▲雲の山。山好きにははっとする。稜線に霧の滝が流れる山のシルエットが目に浮かぶ
▲雨の山。濡れそぼった切っ先が天をつくよう
▲地蔵。人型を極力単純化したのか。サークルは地蔵の頭部なのか
▲鳥居のよう
▲元々は遊具とのこと
▲旅行がテーマの作品。八つ墓村を連想するが、突き出たものは足のようでもあり杖のようでもある
ライデン国立古代博物館―古代エジプト展 [■ART]
ミイラをスキャンした映像と棺を立てて並べた展示がユニーク。
〈個人的な見どころ〉
「ツタンカーメン王の倚像」新王国時代・・・テレビなどでも紹介されたこともある座像。
ミイラのスキャンでは、遺体の中には入れないとされる土偶が発見されたり、卵を有する蛇のミイラが見つかるなど新発見が映像とともに流れる。
それだけ抜き取って、印璽としても利用できそうだ。
バーとカーは日本語に訳せないとは言うが、お盆などで供えられるきゅうりとナスのように、魂とその依り代と置き換えればそれほど似ていなくもないと思うのだが。
オノ・ヨーコと石岡玲子 二人の女性から強さを感じた展覧会 [■ART]
小学生高学年になり、洋楽にふれ、ロックのオリジナルを遡っていきビートルズにたどり着く。あのボブスタイルの髪型はかっこよいとは思わなかったが、キャッチーなメロディー、歌いやすさ、一度聞いたら忘れられない曲に魅了された。ビートルズを歴史順に知っていき、ジョンの横にオノ・ヨーコが現れる。
「他にもいい人がいたかもしれない」と現在のパートナーに疑問を持つ人はたくさんいるかもしれないけど、この二人はこの二人でなければならなかった、そう思える二人。
一番ハッとして、共感した言葉
それから「ドラキュラ」など映画の仕事が続いたので、私は暫くの間、石岡さんは衣装デザイナーだと思っていたほどだった。
今回、回顧展で作品を俯瞰してみると、女性のシンボルである乳房のモチーフが多い。裸からエロス払拭し、形そのものの美しさをアピールする。映画「イノセンス」やPARCOのポスターなど、被写体がヌードそのものだったりして、果たして現代でこれが広告として使用できるのか、またそこまで勇気のある会社はあるのかを考えると凄いことである。これも時代の違いということだろうか。
70年代を成人として生きていないのでわからないが、今とは違う熱量を感じる。
キャッチコピーでジェンダーレスとは?を問う作品が多いが、「らしさ」からの脱却を目指しつつも、「らしさ」が持つ美しさをありのまま見せたいという欲も感じる。
「らしさ」によるメリットは享受しても構わないが、「らしさ」に縛られたり押しつけはいけない。
常に自分で考え受け身でいるな、という強いメッセージを感じた。彼女たちの時代から現在、ジェンダーの論議については牛歩に感じたりもするが、広い視野で歴史を見ると、女人禁制がまだ残っていたり自由恋愛のない時代からそれほど経過しておらず、すごい進歩ではあるとも思う。
バンクシー 天才か反逆者か [■ART]
●https://banksyexhibition.jp
非公認で本人がフェイクと批判するバンクシー展。
きっとバンクシーは、宣伝に踊らされ、「バンクシー展に来た」という自己満足の書き込みにあふれかえるSNSなどを見て「やれやれ」と軽蔑しているだろう。
もれなく私もその愚民なのだが。
ただ、シルクスクリーンなどの版画作品を通じてコレクター所蔵品を一気に鑑賞できる機会はありがたい。バンクシーが外壁だけにアートを書いていると思っている人も多かった。
バンクシーは高尚な金持ちのために存在するアートを嫌う。ロシアのアート集団の支援のために版画作品を販売することもある。また、若きときは互いに自分の名を売りに出すためにグラフィカル・アーティスト達が集まるパーティで作品を販売したこともある。
名が高まるにつれ、そういった作品が彼の嫌う「高尚な」金持ち連中に買い漁られ、勝手に高値が付き、彼のあずかり知らぬところで売買されているのである。そういった金持ち連中が買ったアイテムを私たちが(バンクシーに一銭も入らない)展覧会で金を払い鑑賞しているわけだ。
もちろん、今回の展覧会は壁に描かれた作品の写真だけというのもある。
バンクシーを初めて意識したのはblur(2002)のアルバム。当時、退廃的な雰囲気でお洒落だと思った記憶がある。そのときはもちろん、新進気鋭のアーティストの一人としか認識しておらず、これほど世界的に有名になるとは思わなかった。ということはもう文化人にはすっかりおなじみになってから12年はゆうに経っているわけで。
展覧会前にパンパンに情報入れるべきとは思わないが、「ディズマランド」や「ウォールド・オフ・ホテル」(世界一長めが悪いホテル)が本当に存在していたことも知らない方が多く、驚いた。これが一般的にバンクシーの名前が浸透したニュースの一つだったと思うのだが、何をきっかけにバンクシーを知ったのだろう。
社会風刺がバンクシーの作品のテーマなのだから、国際報道にアンテナ張っていないと作品に流れる批判精神の一端も垣間見れないのではないだろうか。
銃ではなく枕で戦えば死なずに済むのにという戦争批判か
閑話休題。
報道写真で有名すぎるほどの「ナパーム弾の少女」。
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/15/090700247/?P=2
左右に配置するミッキーとドナルドは強烈。アメリカ、資本主義。米国民(または無関係を決め込んでいる先進国の民衆)が娯楽とファストフードを貪っている裏で行われていた代理戦争。
バンクシーの言葉には真理がある。
「この世で最大の犯罪を犯すのは、規則を破る側ではなく規則を守る側の人間だ。命令に従う人間が爆弾を投下し、いくつもの村を破壊する」
写真の少女、キムフックさんは背中に負った火傷により、17回も手術をしたという。
初めて知ったのはバンクシーが先行するキャリアを持つグラフィック・アーティストの「キング・ロボ」と「外の壁」で争いを繰り広げていたということだ。互いに互いのアートを改作しあっていたという。多少の絵心がある人間の間では、他人の作品に手を加えることは不文律だろうが、先に手を出したのはバンクシーだという。これが真実ならバンクシーの印象はかなり下がる。
因果関係は全く不明だが、ロボがアパートの近くで頭部を負傷し2014年に亡くなったという事実が気味が悪く、暗い影を落とす。二人の確執は映画『グラフィティ・ウォーズ』で描かれているらしい。
音声ガイドはアプリをインストールしなければならないが、テキストでも読める。
これを全部聞いていくと、ゆうに3時間半はかかる。直訳的なので多少わかりづらい点もあるが、バンクシーの生まれたブリストルという地域の文化的背景もわかる。
バンクシーはアンディ・ウォーホルやキース・ヘリングのモチーフも流用する。
「低俗と高尚の境界線を取り払った功績を讃えている」とのこと。商業主義と拝金主義への批判を是とするバンクシーらしい。
オズの魔法使いのドロシーが、国家権力によってバスケットの中身を検閲されている図は、奇しくも香港で治安部隊に拘束された買い物中の女の子のニュースとだぶる。
バンクシーのまつわる論争の一つ「落書きか否か」という論争は個人的にはくだらなく思い、「ストリート・アートは民衆のための正義のための手段」という解説が最も適切に思う。
ただそこに、器物破損の罪を犯しつつも民意に訴えたいことがあるということだ。
そして、そもそも公共の道路に接する壁というものが、一体誰の物なのか(もちろん法的に所有者の物なのだが)という問題提起もある。法律というものは結局「他人が決めたもの」であり、本来空気や土や道路や森や木や、自然や公園は「誰の物であってもいい」ものであり、「誰か」の物になった時点でそこには「金」が介在する不公平が生じる。
ホームレスを「ここは●●の土地」だとしていくら追い払っても、地球そのものが分割されて誰かの土地であるのならば、彼らの居場所はどこにもなくなってしまう。要するに「金のないものは死ね」というのと同義であり、それは生存権利に照らせばどだいおかしな話なのである。
他の動物と同じく人間だってどこに存在していてもいいはずなのだ。
一番好きな作品は1970年代の反戦運動「フラワームーブメント」に触発された作品【ラブ・イズ・イン・ジ・エアー】。
銃口に花を挿す写真を初めて見たときは、心を揺さぶられた。ヒッピームーブメントをのちに知った世代だが、ジャニス・ジョプリン、ドアーズ、ママス&パパス、ジミ・ヘンを10代に聞いた時に受けた、いかんともしがたい衝撃と憧憬を思い出すから。
私はこの作品を自由な心でさえ奪われかねない、という警鐘を鳴らしていると受け取る
母国の女王にも手を緩めない。モッズの象徴の前の猿のエリザベス。権威主義への批判か
商業主義を揶揄する作品の数々
ミイラ ~「永遠の命」を求めて [■ART]
https://www.tbs.co.jp/miira2019/
エジプト・メソアメリカのミイラ展は過去何度か足を運んだが、今回静かな衝撃を受けたのは日本の自然ミイラの「兄弟のミイラ」だった。その眼窩の奥にまだぬめっとした眼球が残っているようにも見え、まだ命の灯が糸のように残っているようで、ひどく生々しかった。彼らの出自はわからない。兄弟同時に死んだのかも、後から同じ場所に葬られたのかも、死因さえも不明だ。兄の異様に膨らんだ頬袋がまた奇怪で、詰め物なのか腐敗時に膨らんだものかもわからない。
わからないことだらけで余計興味を掻き立てる。
生々しいといえばエジプトのミイラの鼻腔の大きくあいたミイラ。これは脳みそを鼻から掻き出すためで、生きているうちに処置が行われたかのように、ミイラが苦悶の表情をみせている。
また、破損個所の全く見当たらないような、学問的な探究心で自らミイラとなった本草学者のミイラの前では、自らに課したその峻烈な使命を目の当たりにし、ただひたすら感銘するばかり。
解説には「亡くなる直前に柿の種子」を大量に摂取していた」とあるが、これは即身仏にも通じる方法と見受ける。
https://mag.japaaan.com/archives/90333
即身仏は五穀絶ち、十穀絶ちののち、「土中入定」するさいに漆を飲む。この本草学者が何者か知らないが、すでにこの方法は知る機会もあっただろうから、敢えて他の方法で行った可能性もあるのかもしれない。タンニン成分が腐敗を妨げるから飲んだとあるが、両手がタンニンの色に染まっていた。学者の実験は成功したといえるが、場所と状況と環境が詳らかにされていないため、実際の方法は想像の域を出ない。それがひどく残念だ。
しかしなぜこの本草学者は名を伏せられているのだろう。子孫の意図なのだろうか。
そして即身仏を初めて目の当たりにし、その存在感に清々しいほどの感銘を得た。これは法衣を着ているからだとか、仏だという己の刷り込みからかもしれないが、すっくと伸ばした首筋に、静かな決意とあたたかな慈愛を感じた。
ミイラはそれ自体は人体のDNAをも失うほど別の物質になってしまっており、見た目は朽ち果てた木そのものである。言ってしまえば、遺体だとすら認識しずらく、人体を象った物質とも言えるである。
しかしなぜこんなにも胸をざわつかせる存在なのか。
それは死んでいるにもかかわらず、その生きた時代を閉じ込めたままタイムスリップしてきたように感じるからであり、どうしても彼らの生きた状況や生活や人生に思いを馳せてしまうからである。
ミイラだけではない。チャチャポヤの屈伸されたミイラに纏わせた布、ローマに征服されたエジプトでグレコ・ローマン期に造られた西洋式の棺、ミイラに付随する品々も当時のもの。
絵画であれ骨董品であれ、私たちが普段目にする展示品は人や生活から切り取られた一部であり、所有物と人が一体となって眼前に現れるのも、ミイラ展の魅力の一つと思う。
マドモアゼル プリヴェ展 ガブリエル シャネルの世界へ@天王洲アイル [■ART]
■天王洲 B&Cホール
トリックアートでアパートメントの螺旋階段を再現
友人に誘われて行った展覧会。
鑑賞無料な上に、ギフトにポーチやパンフレットまでもらえるなんて、こんなのあり?
専用アプリで完全予約制でちょっと面倒だけど、ココ・シャネルのアパートメントを模した空間で、CHANELNo.5がかぐわしく漂うオートクチュールの世界は一見の価値あり!
いつも思うのですが、一着に対して300時間、1000時間かかっている作品に対して足を止めてみるのはたかだか10分程度なわけで、この一着の後ろに関わった人たちの時間と労力を考えると足早に通り過ぎるのは冒涜なのでは?という気持ちになる。
これは絵画や音楽、映画や本など創造性に関わること全てに言えることなのだけど。だから、なるべく商品説明より作品そのものに目を向ける時間を長くするよう、心がけている。
富が集まり、生活のために決して必要ではないことに時間が割かれることによって創造性や技術が高まっていくことを考えると、芸術性を高めることははミニマムでエコなことと両立しがたいものなのだとつくづく思ってしまう。
しかし私たちは到底手に入らない華美なものに憧れるし、CHANELのようなハイブランドがない世界は味気ないと思うだろう。
その世界に混じることも足を踏み入れることもないかもしれないが、今回の展覧会のように暫しうっとりとさせてくれる空間は、人には絶対必要。袖を通すことがなくたって、自分がそのドレスに身を包み煌びやかな夜を過ごすことへ想像を遊ばせるだけで、心の栄養になるのだ。
CHANELの体現した五つの色のストーリー。
ショートムービーで繰り広げられるCHANELのドラマチックな人生。
幼くして母を亡くし父親に捨てられ孤児院で育ち、お張り子になり、初めて愛した恋人が事故で死に、第二死世界大戦を経験し、アメリカに渡り…。彼女のインスピレーションがどこから来て、どのように世界に広まっていったのか。そして彼女が行った革新的なファッションが社会をどう動かしたのか。映像も合わせて観賞すると近代服飾史も同時に学ぶことができてお得。
「女性をコルセットから解放」「踝が出るワンピースドレス」「黒いミニ丈のドレス」「ツーピースのスーツ」なんて当たり前のように享受しているスタイルが、彼女が生み出したことを知らない人も多いだろうから、ショートムービーも絶対に見て欲しい。また、その当たり前のスーツスタイルが、一度は母国フランスで酷評されたことも新鮮な発見だと思います。アメリカの女優達がこぞって大絶賛し、劇中でシャネルスーツを着なければ、シャネルスーツは女性のスーツの定番にならなかったかもしれない。
シャネル自身もどん底から成功した働く女性の先駆けでもあったし、生み出したスタイルも「活動的な女性たち」をバックアップするものだったのですね。
ちなみにショートムービーはネットでも観賞できます。
このような展覧会がなぜ無料なのか?
夢見ることはいつまでも自由で、夢はお金を払って与えられるものに成り下がってはいけないとでもいうような、シャネルからのメッセージのよう。
みながCHANELは、美しく飾りたい、美しい物に囲まれてみたいという女性の夢を見続けさせてくれる稀有な存在で有り続けるだろうと感じます。
3Dプリントで仕立てたスーツ。メッシュ地が少し盛り上がっているので、動くとメッシュ地の下の生地がキラキラ反射しているように見えます。
これぞオートクチュール!匠の技
ギュスターブ・モロー展~サロメと宿命の女 [■ART]
シド・ミード展 [■ART]
入場料2000円って高くないか?図録を買えばいいんじゃないか?ってさんざん迷っていましたが、やっぱり行って良かった!渋っていた自分が阿呆だと思いました。
もうこの人が未来をデザインし尽くしてしまったんじゃ無いかと思うほど、完成度の高い未来像。
上級社会に属していると思われる人間たちが、全裸で描かれることも多く、それは古代エジプトの風俗を思い出させる。新しい物を見ているはずなのに、まるで古い時代をみているような錯覚。
それとは反対に、ブレードランナーの行き詰まる閉塞的な世界観。これも見事ですよね。
こちらのエリアは残念ながら全てが撮影不可でしたが目に焼き付けました。
メイキング映像で、確固たる「世紀末像」の一部となった「むき出しの配管」は、予算がなく仕方なくできあがったものだそうです。まさに怪我の功名。
リドリー・スコット監督曰く、ある建築家から「今後この映画を何回も観る」と言われたとのこと。それだけディストピアのイメージを植え付けたこの映画の衝撃は凄いものがある。
それにしても【 M:i:III 】の変身用マスク製造装置のデザインを手がけていたのは知らなかった。
ディストピア感満載の記憶売り買いする世界を描いたSF映画【 ストレンジ・デイズ】の記憶再現装置(?)は、よーく見ると蛙の手のようだとか、1986年制作の【 ショート・サーキット 】が2008年公開のピクサー映画【 ウォーリー】を彷彿とさせることだとか、新たな発見もありました。
人間は既にイメージされたデザインに沿って、実物が開発されていく傾向にある。
余談ですが、ガンダムの撮影不可エリアの一番最後の作品、落書きと称された「大きなマグロ」(だったかな?)のイラストがめちゃくちゃ可愛かったです。これのグッズが欲しいくらい。落書きにもセンスがありますね。
上の二枚が最高に好きです
残念ながら「∀ガンダム」は未見