スタント・ウーマン [ドキュメンタリー]
無声映画時代までは女優がそのままスタントも行っていたのに、「スタント」は仕事になるとわかった途端、男性の希望者が増え、女優のスタントも男性が女装して行うようになってしまったとのこと。
女性だから男性と同じ事が全てできると豪語するには、やはり筋力は足りない。
監督に「女性には危ないことはさせられない」という紳士然の人もいれば「初めから男性スタントを雇った方が楽」という人もいる。
女性が失敗すると「やっぱり女だから失敗した」と言われるが、男が失敗してもそうは言われないとバイクスタントの先駆者は言った。
そして娯楽という映画のために、誰もが命を落としてはならないという当たり前の権利を当たり前に享受するため、「綿密にシュミレーションされていない危険なスタント」は断り、スタントに時間をかけて打ち合わせするよう求める。その視点はともすれば怪我上等、力業で事を進めようとすることに偏りがちな男性陣のスタントに、新たな視点をもたらす。多様性の重要性が伝わります。
忘れてはいけないのは、彼女たちは男性を追放したいわけでも復讐をしたいわけではなく、純粋にスタントという仕事が好きなだけ。聞き手のミシェル・ロドリゲスが「スタントの方が俳優よりアクション映画を楽しんでる」と言うが、まさに。
「女性だからではなくあなただから、仕事を頼んだと言われたい」と語ったスタントウーマンがいました。
男女関わらず誰にとっても、性や人種によって、才能を発揮できる場が奪われないような時代がきますように。
フリーソロ [ドキュメンタリー]
■山岳映画ここに極まれり
ザイルなしのフリーソロは登山界でも異端だとされ、名だたるクライマーでさえ彼らには一目置いている。
そりゃあそうですよね。だって一回のミスで即死しちゃうんだもん。
ビレイをとった高所のクライミング映像でも心臓が縮み上がるというのに、この映画を見ている間は落ち着いて座っていることができず、見終わった後は疲労困憊。
究極の恐怖をどうして克服できるのか。万人が思う疑問に答えるかのように、劇中でも主役のアレックス・オノルドの脳の反応を調べる場面がある。彼の脳は「異常ではないが恐怖を感じる部位が常人よりも活発化しない」状態だった。それはトレーニングのたまものなのか、それとも先天性なのか。
彼の生い立ちやエピソードからは両方だと思われた。
一流のクライマーになれた理由は、最適の特性をもった人が、最良の道を選んだ結果なんだろう。
知られざるフリーソロの世界を垣間見ることのできる貴重な映像のオンパレード。
私はクライミング技術もないただのテント泊縦走1週間レベルのものですが、それでさえ大変な準備を要する。
「季節と山域・各ルートのコースタイム・登山口選び・バスの時刻表・テント場の選択・宿泊のタイミング・登山ルートの最新情報・食料の内容と補充・ウェア選択・道具の動作確認とメンテナンス」、仕事しながらだとこれに2週間は要する。天気が悪く季節がずれるとさらに練り直し、休みの兼ね合いでなかなか行けなくなることもある。
フリーソロは基本空身で上るため、一日で登れる岸壁にアタックする。
その準備のため、ビレイを取りつつ細かく岩の状態を調べ、丹念にメモを取り、何日も何日もシュミレーションする。一流のクライマーがルート選びをサポートする。
一流の山岳カメラマンがアングルを決める。
誰もが、アレックスに最高難度で難攻不落の壁に成功してもらいたいと思っている。
数ヶ月たって準備が整っても、アレックスはいつ登攀するかを決めない。
告知してから登ると気が散るため、集中度が最大限に高まったときに好きなタイミングでひっそりと始める。
そのため、撮影隊は野生動物を待ち受けるように彼が動き出すのをひたすら待つ。
そこには無言の命のやりとりがあり、まるでその一帯が静謐な精神世界に変容したようだった。
失敗したら、アレックスは自分の死をさらけだすことになる。撮る側は彼の死を目撃することになる。双方とも相当な覚悟が必要だ。本当にこの人たちおかしい。
でもひっそり初めてひっそり終わるフリーソロの偉業を、一流のクライマーでもある監督たち以外に、一体誰が収められるというのだろう。
ゴールに誰も待っていない。広く世間から喝采も賞賛も浴びることはない。記録がなければ誰も知ることがない。誰にも伝えてなければ、死んだことすら暫く気づかれないかも知れない。
アレックスは望まないだろうが、登山に興味あろうとなかろうと、あまりにも孤独で極限の挑戦を続けている人がいることを、もっと世間に知ってもらいたいと思った。
それにしても登山に取り付かれた人って皆が住所不定になりがちですね。
彼に安定と安心をもたらす女性は、結果、彼の集中を削いでしまう。愛は獣性を殺いでしまうのか。
恋人ができたとたん怪我を重ねるアレックスの姿を見て、悲しいかな、彼の人生には家族を持つうことがまったく向いていないのだなと思った。冒険者としての生き方の難しさも感じた。
MERU/メルー [ドキュメンタリー]
MERU/メルー スタンダード・エディション [Blu-ray]
- 出版社/メーカー: TCエンタテインメント
- 発売日: 2017/06/07
- メディア: Blu-ray
まず、普段から登山だけを妙に敵視する人が多いことに、以前から疑問を隠せない。
レビューには「命を粗末に扱うエゴイスト」や「怪我や遭難で救助される税金の無駄使い」「辛いのに登る理由がわからない」などなどの、存在の拒否を超えて憎しみさえ感じる言葉が並ぶ。
山岳遭難事故は報道されてしまうからだろうか。水難事故や他のスポーツ中の事故には同情の声も多いのだが、なぜか山に関しては敵意むき出しのコメントが多い。そういう方は幼いころ、課外学習で嫌な目にでもあったのだろうか。
彼らは死にたくてスポーツをしているのか?
日常から誰かに助けられていない人間なんて、どこにもいないと私は思う。
なぜそれらをするのか?と聞かれたら、ただ単に「好きだから」の一言に尽きる。
野球の相撲もラグビーも観戦するが、他のスポーツも同様だ。
そういった意味ではひどく純粋な、己の満足のためだけの行いといえる。
相手は自然ですが、戦うわけじゃない。
不便さと恐怖を克服した先に、登頂した達成感がある。
しかし好きな気持ちが上回っているから、肉体の極限までやり続ける。自分の限界を試したくなる。
また、山に行ける機会は高山になればなるほど少ない。資金集めや加齢などのタイミングもある。
危ない・危ないといってレオンの回復を待っていたら更にチャンスは減るだろう。
それに他のクルーをチームに入れてメルーに挑戦することのほうが、レオンに対してあまりに酷な仕打ちといえないだろうか。
スポーツに限らず、宇宙や火山や深海の探索や、トンネル掘削や高層ビル建築などなど、危険をはらむすべての人間の営みにおいていえることだろう。
アームストロング船長の語ったように、人は困難に挑みたくなる性質を備えているものなのだ。
限られた人しかたどりつけない場所の映像を見ることができて、楽しかった。
ようこそ映画音響の世界へ [ドキュメンタリー]
カニバ [ドキュメンタリー]
■原体験なのか血脈なのか
徹底的に顔に終始し、ピンの合わないカメラ。
不快な咀嚼音や、「これが人を食べた口だ」といわんばかりに口元のズームに終始したカメラワークに辟易。人間の欲求は説明しようとすればするほど、朦朧としてつかみ所のないものだと言いたいのかもしれないが、狙いすぎの感あり。
徹底的な顔のアップが功を奏したのは、仰向けになった佐川と目があったとき。
それまで枠外に目を向けていた佐川が、カメラを直視する。
人を食べた人という先入観があるからか、つい目を背けた自分がいた。
驚くのは弟の性癖が明らかになったとき。
「ほかにも同じような症例があるかもしれない」と冷静に自分を分析する弟。
二人の似通った嗜好は血のなせるわざと片づけていいのだろうか。
それとも、佐川の幼い頃に、人肉への憧憬を抱かせてしまった叔父による怖い話を、弟も一緒に聞いていて刷り込まれてしまったのか。、映画では語られておらず不満に感じたそのエピソードを、実際に彼の口から聞きたかった。
後半差し込まれる、ホームビデオの映像。裕福な家庭での仲むつまじい幼い頃の二人の姿には、将来人肉への強い欲求を覚えてしまうようにはとても見えない。
しかし息子たちが注射をされている姿を、わざわざビデオにおさめる行動からして、親もその気があったのかもしれない。
一体人はいつ欲求を抑えられなくなってしまうのだろうか。
「かぶりつきたいほど可愛い」という表現がある位なので、愛しいものを食べたい、ないしは噛みたいという欲求は本能に備わっているものなのだろう。手を使わない四つ足動物が、子どもを舐めたりくわえたりする行為の延長なのかもしれない。
なんにしても、弟の言うように合理的な手段で欲求を発散していれば、佐川は殺人にいたることはなかったのかもしれない。
最初は兄の異常さに一歩ひいて客観視していると思っていた弟の態度に、兄への憧憬らしきものが垣間見えてくると、映画は別の表情を帯びていく。
彼は、勇気を振り絞って性癖を告白した後の兄の淡白な反応にがっかりしたり、兄の描いた人肉漫画の出版社に「こんなものを世に出したら兄の評価が落ちる」などと憤りをみせる。
カニバは佐川個人の話ではなく、いかんともしがたい欲求を抱えた人間たちを映し出す映画だった。
(どうでもいいが針金はもっとうまく扱えないのか)
しかし全体的に内容が希薄。
佐川の口から語られることは多くなく、映画館でみるほどの作品ではなかった。
そしていかにハリウッドスターたちのような、美男美女の絡みが美しいかを思い知る。
佐川の出演したAVの映像は、生理的嫌悪でしかなかった。
■常陸野ブルーワリー@品川エキュート
バッドキッド・ビギンズ [ドキュメンタリー]
■みんな、優しくすることに飢えている
他人に優しくすることは、自分自身も癒されるということを改めて教えてくれた作品。 誰かを助けたいという純粋な気持ちは、独りよがりのようでいて、決して独りよがりではない。
誰か一人を幸せにすることが、時には批判を呼ぶこともあるけれど、同じように苦しんでいる人に「もしかしたら私にも誰かが手を差しのべてくれるかもしれない」という希望を与えることに比べたら、決してやる価値がないとは思えない。
助けられた人が、今度は人を助ける側になるという話はよく聞くし、そうやって支援の連鎖を広げていけばいいと思う。
しかし、本物の市長がゴッサムシティの市長を演じたり、公道の一部を閉鎖したり、メジャーリーグの球場を使ってマスコットキャラクターの誘拐劇をしたてたり、これほどの規模のチャリティーは日 本ではできないな、と思うのも事実。
批判されるかもしれないからやめよう、ではなく、批判がこないくらい良いものにしよう!とリスクを潰しながら実現させていくアメリカ人の行動力は見習いたい。
参加した人はきっと、苦しい時やつまらないときに、このときのことを思い出すんだと思う。
「あの夢のような時間は何だったんだろう?」 って。
そうやって国中に同じ感動を分かち合った人たちがいて、善意の火をまた心に灯すんだと思う。
人と人は点と点かもしれないけれど、スーラの点描みたいに沢山の良い行いが重なれば、世界が善意で埋め尽くされるのに。そう信じさせてくれるいいお話でし た。
等の主役の男の子は、知らない人たちが喜んだり笑ったり踊ったり不思議!と思ってるだけにしてもね(笑。
本当に心を癒されたのは、周りにいる人々、参加した人々かもしれませんね。
そして映画を見た私も、癒やされました。
8/12 ピクニックシネマ@恵比寿【アイリス・アプフェル 94歳のニューヨーカー】 [ドキュメンタリー]
毎年のように行われているけれど、初めて~。
家でもさんざん映画を見ているけれど、広い場所で大勢で見るのがやっぱりいいね。
直接話さなくっても、きっとこの人もあの人も、思い思いにいろんなことを考えて、映画を受け止めたんだろうなぁなんて、思いながら眺めると嬉しくなっちゃう。
主催はキネ・イグルーさん。代表の方からは映画への熱い思いを感じました。
■アイリス・アプフェル 94歳のニューヨーカー
さて映画【アイリス・アプフェル 94歳のニューヨーカー】。 とっても素敵な映画です。
アイリスはインテリア・デザイン界では有名な人でしたが、ある個展をきっかけに大衆的にとても有名になりました。いまやトークショーやファッション界に引っ張りだこの彼女ですが、芸能界で有名になろうと思っていたわけではなく、自分の感性をそのまま表現できる場所で、自分に妥協せず仕事をしてきただけ。
そのあふれる好奇心と流行におもねらないスタイルが、人を惹きつけてやみません。
たかがファッション、されどファッション。何を選ぶか・どう着飾るかは、その人がどうありたいか・どう見られたいかに直結する。改めて、人は中身も大事だけど、中身が外見に反映するのだよ、ということに思い至りました。
彼女は決して人のファッションを馬鹿にしたり、悪口を言ったりしないそうです。
「何を選ぼうとその人の自由。たとえそれがダサクても」(意訳)。
他にも名言がたくさん発せられましたが、なかでも「冒険しなければ何もしないことと同じ」というのは刺さりました。アイリスを愛してやまない夫の「彼女といつまでも冒険したいんだ」という台詞にもキュンときちゃいました。
最後の一本 [ドキュメンタリー]
満足度★80点
世界で唯一のほ乳類ペ○ス博物館、人類第一号になるべく最後の一本をかけた闘いは、大笑いのあと、意外にも人生ってうまくいかないもんだな…と、ちょっとしみじみしてしまう作品だった。
いくらペ○スが縮んでしまったとはいえ、アイスランドで冒険家として名を馳せているアランより、自分のペ○ス「エルモ」を有名にしたいと言って憚らないトムの方が、真面目で不器用で、なんだか可哀想。
人生に満足してない人はたくさんいるけど、彼が初めて見つけた生き甲斐が今回のエルモだったんじゃないかと思うと、 ああ胸が痛い…。
しかもアメリカ人なのに、コーヒーじゃなくてティーバッグを好んでいるあたり、結構紳士なんじゃないか・・・(根拠薄)。
割と最初から勝ち目のないトムが、あれやこれやと夢を広げていく過程で、ぶつかる意外な障壁。健康な部位を切除するために、法的にクリアしなくてはならないことが、結構あるのね。
しかしあれだけ奔走したにも関わらず、モタモタしている間に出し抜かれた(というかライバルのアランが死んでしまった) 通知を受けたときの彼のショックな様子、言い様のない哀しさ。人生うまくいかないなぁ…。あぁ、もどかしい。
ところでエンドクレジットのエルモの漫画、結構な完成度だったのだけど、どこかで掲載されたのかな?それとも未完なのだろうか。
ちなみにアイスランドの「法的な長さ」 は13センチ(だったと思う)、女性は案外ソレだけでイケないもんよ。
他のテクニックでなんとかなると思うから、そんなに気にする必要ないと思うけど(笑)
それよりも、観賞後のトークショーがあって、面白すぎて本編の印象が薄れてしまった(笑)
「その日、ペ○スはエンタメになっ た~ペ○ス映画闘争史~」
〔開催日時〕 8月12日(水) 20: 45の回 上映終了後
〔登壇ゲスト〕 村山章さん(映画評論家)
要するにペ○スをが映りこんでしまったというか敢えてペ○スを撮った映画について、いつから日本でボカシがなくなったかという映画史を展開(笑)。パワポでスライドショーしつつ・・・というプレゼン方式ですな。
何章に分かれてたか忘れちゃったけど、「ペ○ス黒船到来」とか、「ペ○ス革命児」とか。
ボカシをかける定義は、要するに「エロい行為において、エロい気持ちを喚起させる」つーことだそうです。
エロいかどうか、人間が判断する限り、ある意味あいまいです。
その曖昧な映倫を困惑させた革命児はスピルバーグ。
なぜかというと、【シンドラーのリスト】や【アミスタッド】で裸をバンバンぶちこんでいるが、いくら映倫さんでも、恐れ多くも迫害シーンをエロには定義できないだろうと。
ということで、スピルバーグはアート系作品はチ○コOKという革命を起こしたとか(笑)
下半身を出すのが好きな俳優では、ハーベイ・カイテル(ピアノ・レッスン)やケビン・ベーコン。
時間がなく配給会社員からストップがかかって、最後までスライドを見せてもらえなかったのが残念(本人は至ってやる気だったが)。慣れないパワポで一生懸命プレゼンしていた村上さん、ご苦労様でした。
「女性のためにティンコを映す時代!」でセックス&ザ・シティが紹介されたのは嬉しかったなあ。
サマンサ垂涎のイケメン・シャワーシーンは、私もリモコン操作で一時停止したもの(笑)
しかし映倫がいかにも日本人的曖昧さでいい加減に対応してきたかがわかるなぁ。
命の子ども [ドキュメンタリー]
★満足度85点
■宗教と人間の本質の矛盾がまざまざと
冒頭でパレスチナ人の少年が「ぼくたちはすでに死んでいるんだ。例え死んでも神のご意志だから怖くはない」と言うシーンがある。
それは、「息子を助けたいのは殉教者にするため」 という、母親から発せられた言葉と同じくショッキングだ。
難病で何人も子供をなくし、今度こそ息子を助けたいと一心に願っていた母親に幸いあれと、固唾を呑んで見守ってきた観客は度肝を抜かれる。ドナーを探しあてたとき、安堵で泣き叫んだ彼女の姿からは到底想像できず、理解に苦しんだ。
案の定それは、イスラエルで治療を受けることへの同胞からの批判や嫌がらせを受けての、自己弁護的な台詞だった。しかし、全くの演技だったとも思えない。
原理主義者ではないにしろ、敬虔なムスリムたちのアラーに対する忠誠心は凄まじい。わたしたちは、彼女らにどのタイミングで宗教心が芽生えるのかを知らない。感覚的にわからない。
でも息子を助けたいと思う母親の想いが、宗教の戒律に板挟みになっているのはわかる。本当に宗教は彼らの心の安らぎになっているのだろうか?
宗教による「頑なな決めつけ」は弊害だ。「ユダヤ人は神との約束を守らなかったからエルサレムに住めなくなり、真に救済の神託を授けられたのはムハンマド」。かたや「モーセを通して神が約束してくれた土地」。双方「神がいる」前提で、各々の預言者が正しいと譲らない。
その土地への恐れや敬いなど「人間」が生きてきた思いや証を、神社という形に具現化してきた日本人とは、根本的に違う。これでは中東の平和なぞ永遠に望めないだろう。
しかしもし中東に江戸時代のような平和な時代が続いてきたのなら、「アラーのためなら命を惜しくない」と彼らにいわしめるだろうか。このドキュメンタリーで垣間見たパレスチナの惨状を見ると、いちいち人の死に対して敏感に心が反応していたら、狂ってしまうだろうと思う。
だから、何も考えずにいられる宗教があれば、自分たちは正しいと思えて、精神的に楽なのだろう。
イスラム教典には「攻撃や侵略をされたら戦ってもいい」とある。 それは正当防衛と同じ理屈で、その考え自体には特殊性はない。 絡み合った憎しみの連鎖は、中東だけの責任ではないと世界が自省しなくてはいけないのに、シオニストたちの移住で混迷はさらに加速した。
毎日のように殺し合いが行われているのに、「私の息子の小さな命が、イスラエルとパレスチナの火種になるのはおかしい」というのが、彼女の本音だろうと思う。
せっかく助かった命なのだから、登場した一家には、どうにか生き延びていって欲しい。
プロジェクト・ニム [ドキュメンタリー]
リメイクされた【猿の惑星:創世記(ジェネシス) 】の原案になったという実話をもとに作製されたドキュメンタリー。
元に、というのも曖昧な表現になってしまうが、このドキュメンタリーが作製されたのは2011年。
当時の記録映像を織り交ぜながら、当時の関係者にインタビューしていく形式を取っている。
時系列によるインタビュー形式でありながら、ダラダラせずにすごくスリリングで面白い。
言語能力が先天性のものなのか後天性で獲得できるものなのかを調べるため、コロンビア大学の心理学者ハーバート・テラス教授がチンパンジーを人間同様に育てるという実験を行った。
ニムは紆余曲折を経て様々な環境で飼育されることになるが、関係者の独白が進むにつれ、ニムの一生が悪い物になるではという予感に支配され、その後の展開に目が離せなくなる。
結局ニムは、①テラス教授の知り合いステファニー一家⇒②大学助手らによる、大学施設で飼育⇒③霊長類センター⇒④新薬実験施設のモルモット⇒⑤③の所員ボブが裁判をおこす⇒⑥怪我をした動物を引き取っている牧場へ
という変遷をたどる。
強烈に思ったことは、どんな目的であっても一度飼った動物は最後まで面倒を見ることがいかに大事かということ。
①の大家族の母親、ステファニーは本来の目的である『観察』や『手話の実験経過報告』など一切怠り、ただ自然にあるがままニムを育ててしまった。これは教授の指導も悪かったと思うが、母乳で人間同様に育てたあげく、しつけを怠ったことが、後のニムの凶暴化に歯止めが利かなくなった原因では無いかと思ってしまう。
成長するにつれ肉体が強靱になるニム。
人間は成長するにつれ理性的になっていくが、ニムは逆行するように本能が抑えられなくなっていく。
②の女性手話指導員と研究助手、⑤の牧場に遊びに来たステファニーに大けがをさせている。
トイレを覚えたり着替えを自分で行ったりと、他の猿よりも知性を獲得しているように見えるが、生殖器の発達とともに野生が爆発してしまうのが結局は獣ということなのだろうか。
それとも①と②の母親役から引き離されたのが怒りの引き金になってしまったのか。
それとも、動物の性として女性人間を弱い者と認識し、自分の元から離れたメスに対して怒りのままに制裁を加えたのか。 (その証拠に、10年後に訪れたボブにはおそいかかっていない)
しかし根本は人間が悪く、「結局、動物は動物」と始末できることではない。
霊長類センターに預けられたニムは、他のチンパンジーから孤立してしまう。
テラス教授や所員のボブは、「手話ができるなら、チンパンジーの群れの優位に立つ」と考えていたが、実際は違った。
チンパンジーを見るのも初めて、触るのも初めて。
彼は、人間でもないチンパンジーでもない存在になってしまった。
大学研究員から引き離されたときの絶望の表情。
また、テラス教授がセンターに一度だけ訪れたときの驚喜の様子。
そのときの様子は胸にいたい。
研究は打ち切られてしまったが、明らかにニムには、人間とふれあっていたことによる感受性の発達がうかがえた。
それは獣にとって幸福なことなのか、いなか。
ニムにとって一番の救いは霊長類センターのボブ。
彼はセンターにいるあいだ、逆に手話を覚え、ニムと信頼を築いていく。
センターが解体され動物実験施設に入れられた後、「人間に飼われた動物には残酷」という告発文で、ニムを原告にして裁判を起こす準備をする。 やはり彼も、人間が介在したことによってニムに知性をみてとった一人なのだ。
裁判騒動のさなか、引き取られた牧場は偶蹄目専門の牧場で、巨大な檻の中で再び孤独になるニムをしきりに気にしていたのもボブだった。牧場主から接近禁止命令まで出されてしまう。
ボブがやっとの思いで再会したとき、襲われなかったことに心打たれた。
ステファニーとボブの違いはなんだろう。
(誤解とはいえ)それほど「母親」に捨てられた怒りというのはすさまじいのだろうか。
それとも、ボブは最後まで見捨てなかったというのがニムに伝わったのだろうか。
檻越しに対面するボブにただ、「遊ぼう」と示した手話に涙した。
科学や医療の恩恵にあずかっている身としては、動物を使用した実験に全て反対とはいわない。
人間が人間として種の保存をしていくために獲得したのが知恵なら、それを駆使するのは自然なことではある。
ただ、繰り返すけど、一度人間が関わった動物に対して最後まで責任を取らなければならない、と改めて思った。