フリーソロ [ドキュメンタリー]
■山岳映画ここに極まれり
ザイルなしのフリーソロは登山界でも異端だとされ、名だたるクライマーでさえ彼らには一目置いている。
そりゃあそうですよね。だって一回のミスで即死しちゃうんだもん。
ビレイをとった高所のクライミング映像でも心臓が縮み上がるというのに、この映画を見ている間は落ち着いて座っていることができず、見終わった後は疲労困憊。
究極の恐怖をどうして克服できるのか。万人が思う疑問に答えるかのように、劇中でも主役のアレックス・オノルドの脳の反応を調べる場面がある。彼の脳は「異常ではないが恐怖を感じる部位が常人よりも活発化しない」状態だった。それはトレーニングのたまものなのか、それとも先天性なのか。
彼の生い立ちやエピソードからは両方だと思われた。
一流のクライマーになれた理由は、最適の特性をもった人が、最良の道を選んだ結果なんだろう。
知られざるフリーソロの世界を垣間見ることのできる貴重な映像のオンパレード。
私はクライミング技術もないただのテント泊縦走1週間レベルのものですが、それでさえ大変な準備を要する。
「季節と山域・各ルートのコースタイム・登山口選び・バスの時刻表・テント場の選択・宿泊のタイミング・登山ルートの最新情報・食料の内容と補充・ウェア選択・道具の動作確認とメンテナンス」、仕事しながらだとこれに2週間は要する。天気が悪く季節がずれるとさらに練り直し、休みの兼ね合いでなかなか行けなくなることもある。
フリーソロは基本空身で上るため、一日で登れる岸壁にアタックする。
その準備のため、ビレイを取りつつ細かく岩の状態を調べ、丹念にメモを取り、何日も何日もシュミレーションする。一流のクライマーがルート選びをサポートする。
一流の山岳カメラマンがアングルを決める。
誰もが、アレックスに最高難度で難攻不落の壁に成功してもらいたいと思っている。
数ヶ月たって準備が整っても、アレックスはいつ登攀するかを決めない。
告知してから登ると気が散るため、集中度が最大限に高まったときに好きなタイミングでひっそりと始める。
そのため、撮影隊は野生動物を待ち受けるように彼が動き出すのをひたすら待つ。
そこには無言の命のやりとりがあり、まるでその一帯が静謐な精神世界に変容したようだった。
失敗したら、アレックスは自分の死をさらけだすことになる。撮る側は彼の死を目撃することになる。双方とも相当な覚悟が必要だ。本当にこの人たちおかしい。
でもひっそり初めてひっそり終わるフリーソロの偉業を、一流のクライマーでもある監督たち以外に、一体誰が収められるというのだろう。
ゴールに誰も待っていない。広く世間から喝采も賞賛も浴びることはない。記録がなければ誰も知ることがない。誰にも伝えてなければ、死んだことすら暫く気づかれないかも知れない。
アレックスは望まないだろうが、登山に興味あろうとなかろうと、あまりにも孤独で極限の挑戦を続けている人がいることを、もっと世間に知ってもらいたいと思った。
それにしても登山に取り付かれた人って皆が住所不定になりがちですね。
彼に安定と安心をもたらす女性は、結果、彼の集中を削いでしまう。愛は獣性を殺いでしまうのか。
恋人ができたとたん怪我を重ねるアレックスの姿を見て、悲しいかな、彼の人生には家族を持つうことがまったく向いていないのだなと思った。冒険者としての生き方の難しさも感じた。
MERU/メルー [ドキュメンタリー]
MERU/メルー スタンダード・エディション [Blu-ray]
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まず、普段から登山だけを妙に敵視する人が多いことに、以前から疑問を隠せない。
レビューには「命を粗末に扱うエゴイスト」や「怪我や遭難で救助される税金の無駄使い」「辛いのに登る理由がわからない」などなどの、存在の拒否を超えて憎しみさえ感じる言葉が並ぶ。
山岳遭難事故は報道されてしまうからだろうか。水難事故や他のスポーツ中の事故には同情の声も多いのだが、なぜか山に関しては敵意むき出しのコメントが多い。そういう方は幼いころ、課外学習で嫌な目にでもあったのだろうか。
彼らは死にたくてスポーツをしているのか?
日常から誰かに助けられていない人間なんて、どこにもいないと私は思う。
なぜそれらをするのか?と聞かれたら、ただ単に「好きだから」の一言に尽きる。
野球の相撲もラグビーも観戦するが、他のスポーツも同様だ。
そういった意味ではひどく純粋な、己の満足のためだけの行いといえる。
相手は自然ですが、戦うわけじゃない。
不便さと恐怖を克服した先に、登頂した達成感がある。
しかし好きな気持ちが上回っているから、肉体の極限までやり続ける。自分の限界を試したくなる。
また、山に行ける機会は高山になればなるほど少ない。資金集めや加齢などのタイミングもある。
危ない・危ないといってレオンの回復を待っていたら更にチャンスは減るだろう。
それに他のクルーをチームに入れてメルーに挑戦することのほうが、レオンに対してあまりに酷な仕打ちといえないだろうか。
スポーツに限らず、宇宙や火山や深海の探索や、トンネル掘削や高層ビル建築などなど、危険をはらむすべての人間の営みにおいていえることだろう。
アームストロング船長の語ったように、人は困難に挑みたくなる性質を備えているものなのだ。
限られた人しかたどりつけない場所の映像を見ることができて、楽しかった。
異端の鳥 [戦争ドラマ・戦争アクション]
http://www.transformer.co.jp/m/itannotori/
満足度★70点
パンフレットを読むと、原作は作者の実体験に忠実なものではないらしい。
それを知って少し安堵した。一人の人間がこれほどまでに完璧な悪意の数々に出くわすだろうかと訝しんでいたからだ。
この映画は少年に向けられた悪意というより(もちろんその場合もあるが)、少年の目を通して人間の獣性を露わにしていくもので、モノクロの画(え)はどこか暗くて恐ろしいおとぎ話のような凄惨な美しさを秘めている。
使用人との浮気を疑い妻に暴力をふるう夫、息子が穢されたと激高し売春婦の膣にボトルを差し込み殺す主婦たち、敬虔なクリスチャンのふりをして少年を手籠めにする農夫。
閉鎖的な空間で自分が優位に立ちたいという生理的な欲求と虐げられる弱者。
一番心に堪えたのは、逃がすふりをして小鳥をペイントし、仲間の群から攻撃させるようにし向けて殺されるさまを楽しんでいた鳥飼のエピソード。
自分よりも弱い動物を守り涙する心を持っていた優しき少年は、次第に感情を失っていき、しまいにはある女性への失恋から彼女の家畜のっ首を切り落とし投げ入れるまでの攻撃性を見せる(ゴッドファーザー2を思いだした人は私だけではあるまい)。
少年の旅する世界は架空の世界で、言語はスラブ語をベースにしたこれまた架空のものだという。
ラマの女性や、コサック、ロシア兵などの実在の名詞は出てくるが、地域を限定しないことでより抽象的に描けるからだろうと思う。
戦時下の人間は自分本位になりがちだが、兵士以外の人間はこの映画のようにむき出しの攻撃性を持つものではなく、積極的な消極性が際立つものだと個人的には思う。要するに「苦しむ人を助け〈なかった〉」「捕虜に水をあげ〈なかった〉」「病気の人を防空壕にいれ〈なかった〉」「みなしごを見殺しにした」などなど…。
何が言いたいのかというと、登場人物の行動は残虐と非道という点でステレオタイプで多少芝居がかってはいるということ。
ただ、このレパートリーに自分の中に眠る、発露していない悪意がいつ首をもたげる時がくるのかという潜在的な恐怖を感じた。
ブルーム・オブ・イエスタディ [ヒューマンドラマ]
■新時代のホロコーストものだとは思うが
ホロコーストについて、二人がもっと真剣に語り合うのかと思いきや、意外とそうでもない。
真面目で不器用で研究に偏執狂的なトトが、ヒステリックでおつむの弱いインターンのザジにひたすら振り回される。
それまでトトはザジのセックス妄想に辟易していたし、はっきりいって奇行のほうが上回ってしまって、二人の男から求められるほどの魅力があるように思えない。
実はネオナチでしたというトトが贖罪を抱くほど、ザジが先祖の歴史を背負っていたとも思えないし、またザジがトトの子供をこっそり産んでいた動機も理解しがたい。
トトが好きだったのではなくて、自分が何か成し遂げた証として、ナチとユダヤ人の融和の存在としての子供が欲しかっただけではと疑ってしまう。トトにもザジにもすっきりと感情移入できなかった。
劔岳-点の記 [ヒューマンドラマ]
劔岳 撮影の記 標高3000メートル、激闘の873日 [DVD]
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- 発売日: 2010/03/21
- メディア: DVD
今年の夏、薬師岳から縦走して立山剱岳を登った。この映画はその後に必ず見ようと楽しみにしていた。
木村大作、初監督。
映像美とロケにこだわった山の雄大さは登攀者として思い出に重なること甚だしく、剱の全容がよく見渡せる別山からみた銀幕の景色が、私の網膜に焼き付いている景色を蘇らせ、観測隊の苦労が胸に迫ってきた。
測量隊、山岳会各々の立場から反目しあっていた両陣営の思いが次第に反転し、ついには互いへの尊敬と連帯感に変わる。
剱岳という難攻不落の壁を前にして、互いのちっぽけな矜持はなりをひそめていく。
測量隊は山岳会に対し、「仕事という責務がないのに、自分の好奇心だけで命がけの登山をする」ことを凄いと思い、山岳会は測量隊に対し、「己の楽しみでもないのに、仕事で登山すること」を凄いと感じたんだろう。
そして千年以上も前の錫杖を発見し、悠久の時を越えて同じ思いを抱いた名も知れぬ同士がいたことに、深い感銘を覚えずにはいられなかったに違いない。
山岳会の「開山したのはあなた方だ」というセリフがいい。寺を開くことだけが開山ではない。真の開山とは、後世の人々のために道を作ること。
修行という極めて個人的な理由で登攀した行者は、開山者ではない。
そういう気持ちがあったからこそ、岩殿の行者は行者だけに伝わる道を測量隊に助言したのだろう。
本当は登頂したいのに欲を抑えていた長次郎、歩荷しているうちにライバル心を燃やし始める人足も含め、山に関わった人間すべて、入り口は異なるのに山に登ることで言いようのない達成感に体を満たされ不思議な感動に包まれるところに、山の魅力があるのではないか。
ただ、演出にいまいち勿体ないと感じる演出もあった。
手旗信号で長文をあんなに早く送れないだろうと白々しく感じたし、登頂部分は急にスローモーションになるし、もう少し溜と間を使って胸に迫ることができたんじゃないのかと。
雪渓を登り終えた一行が山頂部に目を向ける場面がなかったのは、カメラを向けると現在山頂部にある祠が映ってしまうからなのかな、などと山を知っているからこそ余計なことを考えてしまった。
また、過去の功績や技術力の説明がないため柴崎になぜ白羽の矢が立ったのかが説得力に乏しく、松田龍平や仲村トオルは演技力に乏しく現代人にしか見えず、宮崎あおいは笑顔が張り付いたステレオタイプの女房で、各の時代背景が違うのかと思うほどチグハグ。 淡々と進む物語はそのまま地道な作業の苦労を偲ばせるのでいいと思うのだが、いかんせん風景に重点を起きすぎてしまったのか。
ちなみにあの雪渓が「長次郎谷」と名付けられたことが、後世の評価である。私の中であくまで主役は長次郎の映画であった。
ようこそ映画音響の世界へ [ドキュメンタリー]
サードマン [■BOOK・COMIC]
TENET テネット ※ネタばれあり考察 [SF]
■深い因果性に思考の迷路にはまる中毒性のある作品
待ちに待ったノーランの新作、2回鑑賞。
初回はめくるめく時間の流れに自分が迷子にならないよう、ついて行くのに必死。
だけど予想の範囲だった箇所も多々あるし(マスクの逆行兵士やニールやテネットのボスの正体など)、核となるストーリーの大筋は理解できた。
言い換えれば、話の根幹は既視感のあるSF作品の範疇を超えてはいなかったともいえる。
王道のストーリーだが、時間が戻る様子を可視化したという点で新境地。
手垢にまみれたSFタイムパラドックスものが溢れる中、まったく新しい描き方ができるのかと脱帽。しかし考えてみれば、今までのタイムトラベル・スリップ・リープの時間の飛び方の方がご都合主義だったのではないだろうかとさえ思えてくる。
新作ごとに作品を超えてくるノーラン。難解すぎると批判する前にこんな世界を幾人が可視化できるのかを考えると、商業的にも成功しなければならないし、ものすごい挑戦だったと思う。
また、物理の法則ばかりに囚われると映画の主題が見えなくなってしまう。不思議なもので、思い返せば思い返すほど人物の関係性に因果の業を感じるし、〈名無し〉が〈主役〉に転じたラストのメッセージ性も深みを増す。
ちょっとひっかかるのは、心情を吐露するセリフが説明的なことと、名無しがキャットに一目惚れしたような色気を演出していない割には彼女に固執しているところ。そのバランスは難しいところだったのだろう。
●複雑な逆行世界
話休題。 さて本題の逆行だが、これは今までのタイムリープ系と違って、大いに複雑。なぜなら前出の場合は、現在から過去に瞬間移動するようなもので、戻った時点から時間は順行する。
タイムリープはファミコン時代のスーパーマリオブラザーズ(初期)で例えると、「何度か同じ面を繰り返し失敗したらリセットして、また一からステージをクリアすればいい」ので、リセットをして再びスイッチを入れるまでの時間は、マリオにとって消失してるのと同じだ。
しかし今回は「〈スタートから進むマリオの結果を知る〉マリオ」が、ゴール近くの土管から左スクロールで進んでくるのである。しかもそのマリオは「戻ってくる」わけではない。スタートから進む右・スクロールマリオの動きをトレースしてるわけではなく、自由意志で「進んで」くる。左スクロール・マリオは、何が起きるかわかっているから、右スクロール・マリオのために背後からクッパをフルボッコできるし、現れた瞬時クリボーを踏みつけることもできる。
「ジョジョの奇妙な冒険」の吉良並のチートさかよと思うが、以外と厄介である。
スタンドと違い自分の意志で左スクロールに動く流れは止められないし、タイミングを間違うと振り向いたクッパに反撃される危険性もある。しかもエントロピーの法則でエネルギーは反対側に向かうから、クッパの炎は氷に変わる。吸おうとしても酸素は逃げていくから酸素マスクが必要だ。
そしてマリオ同士がぶつかると2体ともジ・エンドになるんだよ、と物理の法則とやらが決めてるし、永遠に逆方向へ進んでも仕方ないので、左スクロール・マリオはどこかの土管に入り右スクロール世界へ戻るか、ひっそりと崖から飛び降りるしかない。
要するに横スクロールが〈時間〉なら、ステージは〈空間〉。同じ空間に違う流れで進むマリオが2体いるのである。この例え、なんかややこしくなってきた。
ちなみに鑑賞を進めると忘れてしまいそうになるが、逆行するのは人だけではなく物質も。
バーバラが序章で説明したように、使い手が「撃つ」「持つ」という意思を持ってから対象に及ぼす一連運動が終わるまで。
なので、観客はその画(え)が「順行世界で〈逆行している物質〉を見ている」のか、それとも「逆行世界で〈順行世界を見ている〉人間の視点」なのか、よくよく気を引き締めなければならない。
監督も最初から理解してもらうことを放棄してなのか、バーバラに「理解しないで、感じて」と言わしめてるのが少し情けない。正解はノーランの頭の中だけだが、疑問に対しての考察を進める。
●アルゴリズムとは。未来はいつなのか
テネットの戦う相手は姿が見えない未来人。未来のある科学者は、環境破壊による滅亡から人類を救うため地球丸ごと時間が逆行する装置を作ったが、全てが逆行すると先祖たちが滅亡してしまう=未来の自分たちも死ぬ(祖父殺しのパラドックス)理論に絶望して、そのアルゴリズムを9つに分解して過去に隠し、自殺する。
しかし今そこにある危機に瀕している未来人たちは、結果はどうであれ、アルゴリズムを起動させたいと考える。
そこでセイターを利用しアルゴリズムを集めさせてるわけだが、未来から逆行武器や報酬の金を届けてることを考えると、逆行中の時も等しく流れている故に経年劣化してしまうので、それほど遠くない未来だと思われる。
テネット側も未来からエントロピーが反対の物質を利用しており、先祖に味方する未来人もいることが明かされる。プリヤやニールは、〈記録〉があるからだというが、ではその記録の起点はどこか。
起こったことを知っている名無しが記録し、テネットを形成したのは間違いない。
テネット部隊を結成したのは名無しだが、遠くない未来で結成され逆行してきたと思われる。
しかし、あんなに大勢が逆行してくるのは無理があるので、その〈記録〉はニールが持って逆行し、冒頭での名無しに行った〈テスト〉を行って、ある程度の規模は現代で構成した可能性もある。
また、未来人がセイターを操ったように、現代へ色々届けていたのは名無しと逆行→順行に転じたキャットなのかもしれない。
話は変わるが、アルゴリズムというと『虐殺器官』をつい思い出してしまう。アルゴリズムが物質そのものとも、式そのものとも判別できないところがまた、興味を掻き立てる。
●未来人が逆行してアルゴリズムを探さないわけ
科学者が逆行しながらアルゴリズムを隠したのか、逆行から順行に転じてからアルゴリズムを隠したのかが判然としない。しかし前者だとすれば〈そもそも起動したら逆行のエネルギーを世界に与えるアルゴリズム〉に、〈更に逆行のエネルギー〉が付加されたことになり順行になってしまうため、後者だと思われる。
しかし等しく時は流れるため、未来人が科学者を後追いしても科学者の死は止められない。よしんば隠し場所が判明しても自分たちが滅ぼしたい過去にいる時点で巻き添えを食う。未来人の犠牲は出さずに、祖先のことは祖先にやらせているということだろう。しかし、セイターの忠実な僕は実は忠誠心のある未来人で、お目付け役兼補佐なのかもしれない。名無しを助けるニールが命がけで逆行したように。
●果たして彼らはタイムループから抜け出せたのか?「俺が主役だ」のセリフの意味とは
ラスト、ニールは「過去を作りにいく」と言う。名無しを助けるために死ににいくわけであるが(胸熱)、順行世界ではまだ幼いニール=マキシム坊ちゃんが成長して、〈テネットのボス〉になった名無しに命じられ、逆行するという行程を踏まないといけない。
ということは、結果が先にあってそれを元に動くという〈卵か先か、鶏が先か〉問題が解決していないように思える。
ニールはまた、「起きたことは取り消せない」とも言った。この時間軸ではテネットが成功し順行世界は無事だから、成功するように動かなければならない。そうなると、やはり結果ありきのループに思える。
しかし起きたことが取り消せないのであれば、セイターの死は確実だし、アルゴリズムも分解できたので、後で名無しが操るはずの武器商人プリヤを殺すことによってループを壊し、そこから先は新しい未来=パラレルワールドに突入したともいえる。
となれば、〈主役〉には「フィクサーは俺だった」という意味と、「これから予測不可能な未来を自分の意志で生きる決意」の意味の二通りを感じることができる。まさに時に翻弄されるだけの「名無し」から〈人生の主役〉に転じた瞬間だ。ニールが言ったように、未来は誰にもわからないのだから。
●ニールの正体、逆行キャットのその後は
動機を考えると、ニールはキャットの息子マキシムで間違いないだろう。名無しが回転扉をくぐったあとに外へでようとすると無茶だと止められるシーンがあるので、いかに逆行世界が危険なのかをわかっているニールは、回転扉を通った後はひたすらモグラのように籠もっていたに違いない。逆行中も遡った分だけ歳はとるので、30代に見える彼は、その青年期を逆行のために捧げたと言える。
こんな過酷なことを名無し男が命じるとは思えず、セイターから逃れたキャット母さんが名無しへ感謝する姿を見て育ったマキシム坊ちゃんが、自分から志願したのではないだろうか。
ここで疑問、作戦が成功した後の順行キャットはどうなったのだろうか。作戦が成功した以上、元々の順行キャットはセイターに脅かされないわけだが、ラストシーンで登場するキャットは全てを知っている逆行キャットであった。時間をスキップすることはできないので、逆行キャットはそのまま流れるときに身を任せねばならないはずだ。とするともう一人の無垢な順行キャットはどこへ?
ループするのであれば、順行キャットが順行セイターに撃たれて…という時間がくるまで自分に会わないよう慎重に行動して、その後の人生を謳歌すればいいが、ループが壊れたと仮定すると同じ人間2人が存在し続けることになる。これは名無しにも言えることで、一つの疑問である。
こうして考えてみると自説に反証する自分もいて、思考の∞ループにはまってしまう。まさに中毒性のある作品だ。ループしない希望のある話だと思いたい自分もいるし、ループしてアルゴリズムを阻止し続ける悲劇を想像してしまう自分もいる。難解という負のエネルギーを転換すると、登場人物の視点を変え何度でも鑑賞しても楽しめる超娯楽作品と言い替えることができる。
青のロゴマークを見たら最後、観客は劇場に逆行したくなるに違いない。
アイガー北壁 [ヒューマンドラマ]
■ナチ政権下で起きていた、知られざる悲劇
エベレスト初登頂のように、アイガー北壁でも欧州各国の初登頂争いが熱気を帯びていた。
さらに当時のナチ政権はベルリンオリンピックを目前としており、アイガー北壁を登頂した暁には金メダルを与えると喧伝。ドイツの手柄にするものかと、各国の登山隊がアイガーに集う。
二人の主人公、トニーは「生きて帰る」をモットーとした慎重派。対するアンディは自信に満ちた情熱家。アンディの熱意に引きずられるように登攀を決めたトニーだが、本心は名声につられて実力以上の山に挑戦する野心家だと思われたくなかったに違いないし、本気でアイガー北壁は難しいと判断していたに違いない。
スポーツマンシップに則り他の隊を助け、トラブルのなか血気にはやるアンディを制し撤退を決め、冷静さを保ち困難を克服しようとしていた彼が、アンディの死を目の当たりにし、さらに救助隊にすんでのところで見捨てられて、とうとう取り乱す様は観ていて辛かった。
凍傷で動かなくなる指先、ザイルで負った擦過傷、堅い岩盤にささらないピッケル、現代より格段に劣る防寒具、夏なのに襲うブリザード、すべてが生々しく、高山の登攀の難しさをまざまざと描く。
そもそも、アンディが全員が助からないと判断し自らザイルを切った時点で、トニーには彼の死を越えて生き延びる気力はほぼ無くなっていたに違いない。
壁は登らないが、私もテント泊登山をする。誰かがいるからしんどさも越えられる場面が多々あるし、不思議な力が湧いて来るもの。それは沿道やゴールに歓声のないスポーツである登山では特に重要なこと。トニーも相棒の命を背負っていたからこそ、生還ギリギリまで耐えられたのだと思う。
最後まで二人の足を引っ張るオーストリア隊も、ボロボロになりながらも絶対引き返さなかった背景には、彼らがナチ党だったからなのか、それは処世術で本意はナチを嫌っていたからなのかは劇中から察することはできないが、しかし彼らもまた時代のムードに翻弄された被害者といっても過言ではないだろう。
しかしヨーロッパの当時の技術力と生活水準の高さに驚く。
標高2500メートルに四つ星ホテル?
標高3000メートルの駅に、観光用登山列車が到着?
欧州の山岳観光という物が、いかにセレブな階級の娯楽だったのかがよくわかる。
とはいえ、アイガーの列車は元は炭坑用。麓の様子はそのまま格差の対比となる。
労働者たちが命を削って掘った岩盤と観光目的に金持ちが集う四つ星ホテル、テントで寝泊まりする登山家たちとホテル客。
トニーの元恋人で新聞記者見習いのルイーゼも、最初はキザでお洒落な上司ときらめく上流社会に心ときめいていた。多少ご都合主義だったことは否めないが、ルイーゼはトニーの登攀を見守るうちに彼への想いを甦らせる。なんとか彼を助けようとするも、もう少しの距離で如何ともしがたいザイルの距離、涙なしには見られませんでした。
ラストはルイーゼが虚飾にまみれた社会と絶縁し、トニーへの愛を思い出のよすがとして自由の国アメリカで強く生きる姿が映し出される。
ヒトラー政権下において、国威発揚のセレモニーとして聖火リレーを発案したベルリン五輪が「陽」ならば、アイガーに散った者たちはいわば失敗した「陰」のような存在なのだろう。
知られざる歴史の一部を知り、気がふさぎ込むような悲しい気持ちになったが、この実話を知ることができてよかったと思う。